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投稿日:2008年11月20日

2008年11月20日

先月ぐらいから、私の楽しみはじゃらんのサイトで温泉を眺めることから編み物に変わった。レッグウォーマーにストール、犬のセーターを数枚とお散歩用のバッグと割と少ない日数で仕上がるものを選んで編んでいる。形になっていくのが目に見えてわかるので、これがなかなか楽しいのだ。
自分用だからちょっと失敗しても良しと出来る。洋裁だとシビアな部分が毛糸物だとそんなに不器用が目立たないので、編み物は性格的にも合っているように思える。
難しいことは出来ないので、簡単な編み方位しかしないが、それでも今年は初めてアラン模様に挑戦をしたのだ。途中20回ぐらい失敗してやり直し泣きそうになったが、ついにダンボのセーターを完成させて、数枚のセーターの中の「よそいき用」となった。
それにしても、最初に毛糸を編むということを考えついた人はすごいなと思うのだ。二本の棒を使って一本の毛糸を服やバッグなど、形のあるものにしてしまう。乱暴な言い方をすれば「表編み」と「裏編み」の二つを変化させるだけで模様になったり、凝った編み目になったりするわけなので、「次が表編みで次が裏編み」と図面に沿って何も考えずに機械的に編むと完成したら、ちゃんとサンプル通りに物が出来上がる。
うちは母方の祖母が編み物と洋裁が好きで、子供の頃からダンボール一杯のセーターが冬になると送られてきていた。
孫の中では一番私が「手芸」からほど遠いと自分でも思っていたが、今はこうして編み棒も各種揃う家に住んでいる。
私は意外な成長を遂げた。
ほんとに意外だったわ。
祖母の豆タンクっぽい体型にも、まさかと思っていたが最近似てきたなと思う今日この頃である。


投稿日:2008年11月19日

2008年11月19日

外来で病院に行った帰りに、駅近くにあるとんかつ屋さんでランチを食べることにした。
「いらっしゃいませ〜」
店内は思ったよりテーブル席が少ない鰻の寝床風の造りになっていて、壁に向かってカウンター席が多く設けられていた。
「奥のお席にどうぞ〜」
案内されて行った席はカウンターの奥から二つ目の席。3つ隣りには男性と若い女の子の二人が座っていた。
注文をして待っていると、新しいお客さんが通されて一つ置いて隣りに50代後半ぐらいの男性が席についた。
私は新幹線で毎週京都にラジオで行っていた時に、これぐらいの年齢の男性の横に座って「油臭い」「足が臭い」「ゲップをする」「息が臭い」と、息が自然に出来なくなる率が高かったので、これぐらいの知らない男性が近くに座るとちょっと抵抗を感じてしまう。早速男性はゲホッゲホッと咳をし出すので、自然と自分の体がおじさんの反対の方に向いて行くのだった。
あれまー!
反対の方を見て視界に入ったもの・・・
私の席の丁度背中側がトイレだったとは。
案内されてこの席に座った時には人の出入りがなかったので気付かなかったのだが、丁度ランチタイムだったこともあって食事を終えた人が一人、また一人とやって来て用を足して行くようになった。
ジャーーー。
カラカラカラッ。
水を流す音やトイレットペーパーのカラカラッという音までが聞こえてくる。
う、う、う〜〜〜む。
こうも頻繁に出入りがあると、ちょっと私としては厳しい。
「おまたせしました〜」
「ご飯とキャベツはおかわり自由です」
おかわりはいいから、席をかわりたい。
横ではおじさんが相変わらずゲホッと言い、後ろは今トイレラッシュとなり扉が開く度に風が背中に流れて当たる。
このままではとんかつが嫌いになってしまう!
半分ぐらい頑張って食べたが、以後も続くトイレラッシュにとうとう吐きそうになって店を出た。
店ってやっぱり味だけじゃだめなんだ。
いや、味も覚えていない。
本日ランチ失敗の巻であった。


投稿日:2008年11月18日

2008年11月18日

11月と言えば・・・・。
七五三?
ぐらいしか私は思い浮かばないが、ワイン好きの人達にとってはボージョレ・ヌーボーの解禁月というのが一番に来るらしい。
「ボージョレ・ヌーボー、いよいよ解禁!」
これはフランスのボージョレで作られる赤ワインの新酒なのだそうで、ヌーボーはフランス語で「新しい」という意味。毎年11月の第3木曜日が一般市場に出していい販売解禁日となるので、ワイン好きの人達が心待ちにしているのだそうだ。
「ボジョレー・ヌーボー」「ボンジョレ・ヌーボー」と今一つ名前もうろ覚えだったが、いくら飲めないとは言え、私ももういい大人なんだからせめて名前ぐらいは覚えよう。
今年は円高で少し安く買えるらしい。
そして肝心のお味の方は、例年に比べフルーティなのだそうだ。
それって、美味しいの?
微妙な言い回しにも聞こえる。
例年に比べ、濃厚な味です。
例年に比べ、深みのあるお味です。
の、方が聞こえとしては美味しいように思える。
フルーティなお味=さっぱり=ちょっと薄いかも・・・と個人的には想像をしてしまうが、何せワインの味自体自分がわからない。
「これはちょっとフルーティ」
「あまり甘くなくて好き」
「まったりした感じがいいわ」
味の感想が言える人をすごいと思う。
ワインと言えば、昔お酒訓練をしたがワインは特にすぐに回ってしまい、まっすぐに歩けなくなって飲み会早々に退場していた。
ワインを飲むと足元の地球が小さくなった。
曲芸は無理。
地球が玉乗りの玉ぐらいになってバランスを取るのが大変であった。


投稿日:2008年11月17日

2008年11月17日

”しまった”と思った時に、つい嘘をついてその場をやり過ごしてしまうタイプの人が居る。
何回かは上手く行く。
だが、たまにポロっとバレてしまう時もある。
「あなた、嘘をついたでしょう」
そんな時にこんな風に指摘をする人ばかりではない。むしろ気がつかないフリをしてその場をやり過ごす人の方が多いのではないか。
だがそれを機会に、その人は信頼をなくす。
しかし当の本人は、以後自分が警戒されていることに気付かないのだ。
嘘が多い人は、繰り返し人が離れて行く。
出会っても出会っても、また人は去って行く。
ある時、「これからは誠実に頑張ろう」と、反省する。
それからは、丁寧に一歩一歩毎日を送ろうという努力を意識してするようになった。
穏やかな時間。
人とのつながり。
ようやく新しい芽が出て来るかもしれないなという実感が持てるようになって来た頃・・・
またふとしたことで、その誓いを忘れてしまう。
「一回ぐらい、いいじゃないか。」
そんな言い訳が聞こえてくる。
何も薬物だけではない。
嘘も身を滅ぼす。
嘘は身近で誰でも簡単に手に出来る、常習性のある危険な物だと思う。


投稿日:2008年11月16日

2008年11月16日

東側の部屋の窓のすぐの所には塀があって、ここは近所の猫の通り道になっている。私に気付かずに通り過ぎて行く猫、チラっと部屋の中を見て行く猫、犬が居ることを知ってわざわざダンボの姿を見に戻って来た好奇心旺盛な猫も居たが、今日はたまに家の中に上がって来る人懷っこい近所の猫ちゃんが通り掛かった。
猫ちゃんはいつも玄関の方で会うので、この塀のそばの部屋が私の部屋であることを多分知らない。
塀の上でふと部屋の中の私と目が合うと、「あれ?」と言った顔で立ち止まったのだった。
”ここが、ウチなん?”
塀から既に窓の所に半分体を移して、この猫は本当に人懷っこい。
”こっち側の部屋にも入りたい”
明らかに顔が訴えているので、仕方なくダンボを別の部屋に入れて窓を開けることにしたら・・・
”よっこらしょっと”
猫ちゃんは塀から飛び移って早速部屋に入ってきた。
”ふぅう〜〜ん。こっちはこんな風になっていたのか”
猫も他人の家には興味があるらしい。まるで人間のお宅訪問のようにキョロキョロと部屋を見回して、ちょっとめずらしそうな様子だった。
猫ちゃんの家は年を取ったおじいさんと、それから30代ぐらいの息子さんとの二人暮らし。私の部屋は男の人の部屋とはテイストが結構違っているので、猫にとっては新鮮だったかもしれない。
”んじゃ、また”
しばらく探検して猫はまた部屋を出て行った。
猫の不思議は助走もつけずにヒョイと高い場所に上がってしまえる所だ。
行ってらっしゃい。
あまり遠くへ行っちゃだめだよ。
いろんな所が彼等には道になるんだなぁ。
カンロ飴みたいな目で楽しい探検を探す。歩いて走って跳んで、心のままに前に進んでそうして家に辿り着く。昨日を振り返らない生き物なのである。


投稿日:2008年11月15日

2008年11月15日

日が短くなってきた。
「もう雨戸を閉める時間かな」と、思って時計を見たらまだ3時半だったりして、一日が早足で過ぎて行く感じがするのだ。
9月になったら、アっという間に師走になっているという感覚があるが、日が短くなって行くのも感覚を後押ししているのかもしれない。
今年も落葉樹達は一年を無事に終えたよう。
「お先に」と手を振って休暇に入って行く。
川沿いを歩くと、カレンダーや時計も見ないのにどの木も例外なく時間通りに事を進めていることを知る。
大きな木のそばに行くと、彼等は長く生きているだけの強さとエネルギーをしっかり持っているから、いいエネルギーをもらえますよと整体の先生が言っていた。
常緑樹は葉っぱを手放さない。
そして、落葉樹は全部手放す。
100か0だなんて、木も両極端だ。
落葉樹達はもうオフシーズン。
人間ってやっぱり時間を守れないんだなぁ。
人間達だけが遅れを取り戻す為に、一番忙しい時期となって行く。


投稿日:2008年11月14日

2008年11月14日

収録で渋谷に出掛けた。
渋谷駅の構内は昼夜問わず人が多いのだが、歩く人のお洒落度数はと言えば、やはり高いような気がする。
洋服自体のデザインが洒落ている人も居るが、それ以上にコーディネイトを工夫している人、ちょっとしたお洒落アイテムをつけ足したりと、出掛ける前にもう一手間掛ける時間を作っていると思われる人が更に多い気がするので、時計はしてもアクセサリーにまで気が行かないタイプの私は、渋谷に出た時に少し反省をするのだった。
持っているもので、上手い組み合わせを作れたり、ちょこっとアクセサリーを加えたりすることで、お洒落の幅は広げられる。要はアイデアなのだ。
せっかく家にやって来た洋服達だって、気持ち的に”じゃ、いっちょこのヒトを引き立てて綺麗にしてやろうぜ”と、盛り上がるかもしれないのに・・・・。
「何、着ようかな」
クローゼットを開けた時、
”あ、あの人と一回組ませて下さい”
”新しい企画があるんです!”
”今日こそはボクを使って下さい”
”それでは少々保守的に思うんですが”
バタン。
今日もまた私は沢山の洋服達の叫びに気付かなかった。
不満爆発。
私が渋谷駅構内を歩いて、こんな風に反省をしている今頃はクローゼットの中で、洋服達が文句を言い合っているのである。


投稿日:2008年11月13日

2008年11月13日

「ちょっと待っててね」
ダンボが物を拾ってくれたりすると、ごほうびのおやつをあげることになっているのだ。
だが、たまに手が離せない時がある。
前にごほうびをあげなかったら、「やってらんないよ」と、お手伝いを放棄されたことがあるので、ダンボとの約束は自分の為にも守った方がいい。だから、すぐにごほうびのおやつをあげられない時は、「後でね」「ちょっと待っててね」と口にするようにしているのだ。
ダンボはこの言葉を多分理解している。犬の知能は人間の知能に置きかえると2、5歳〜3歳ぐらいなのだそうだが、ダンボは結構記憶力がいいんじゃないだろうか。
たまに「ちょっと待っててね」と言ってから、そのまま用事に気を取られて忘れてしまうと、ダンボの方は「後で」の約束をずっと覚えていて、見える位置に座って私をずっと見つめている。
視線に気付いて「あ、ごめんごめん」と私が思い出すと、”やっと今度はボクの番だ”と喜び、「どうしたの?」と思い出せないまま普通に声を掛けると”もう待てない!我慢していたのに!”と急に二本足で立って、両手をグルングルン回して暴れるのだった。
「あー、ごめんごめん。ごめんね」
私が2歳半の時ってどれぐらいの記憶力だったのか。自分の記憶自体が3歳以降のものしかないので、比べることも出来ないが、犬は思っているより”さっきやった悪いコト”も覚えているし、”後で散歩に行く”ことも覚えているのだ。
特に教えたわけでもないのに、生活の中で彼が覚えたこと・・・。
「お風呂」という単語を聞くと、ダンボはベッドの下に急いで隠れに行く。
「見ーつけた!」と、言うとうなだれてものすごく悲しそうな顔をする。
「かくれんぼ遊び」も覚えた、ダンボなのであった。


投稿日:2008年11月12日

2008年11月12日

先日、クリスマスツリーを出した。
去年は出せなかった。一昨年もそう言えば仕舞ってある場所が奥の方で、あきらめたっけ。
新しいのを買ってもよかったが、東京に来て中野の部屋に住んだ時に、おもちゃ問屋で買ったささやかなツリーは、キッチンの窓辺に置いてチカチカと瞬くとちょっぴり豊かな気持ちになれた。外から帰って来ると窓にツリーの灯りがついているだけで、自分の部屋が少し温かく感じた。
その後引っ越しをしても、毎年秋の終わりになると部屋のどこかに飾ってきた。電源を差す時には「今年は灯りがちゃんとつくかなぁ」とドキドキしたものだった。
かなり時間がかかったが、押し入れのものを一つ一つ動かして自分で出すことが出来たツリー。
「つくかな」
一度目はつかなかった。
そうだよなぁ。
もうあれから10年ぐらい経っているから・・・。
だがあきらめられずもう一度差し直してみると、
チカ・・・チカ・・・。
少し間を置いてから、ツリーが点滅し始めた。
チカ・・・チカ・・・。
赤や青や黄色の電気が瞬いて。
ツリーにとっては、4つ目の家。
久しぶり、ツリーさん。
引っ越しをしたんで、新しい家になったんですよ。
サンタが道を迷わないように、この部屋からも照らして下さいね。
私の家には昔サンタが来てくれて嬉しかった。
だから子供達にはサンタが来て欲しいなと思う。
寒いけれど、あたたかいこの時期が好き。
今年もクリスマスの季節がやってきた。


投稿日:2008年11月11日

2008年11月11日

小室哲哉容疑者、転落人生。
ここしばらく、テレビではこんな言葉がよく出ていた。
犯罪をおかしたことは確かであったとしても、だからと言って、テレビに出ている人が他人の人生を「転落人生」とひとことで言ってしまうのに対しては”どうなんだろう”という風に考える。
事件を伝えるには、他の切り口がいくらでもあるだろうに。
戦争がテーマになると、「世界が平和でありますように」と神妙な顔をし、イジメがテーマになると、「世の中からイジメがなくなって欲しい」と言っている人が、今度は他人の「転落人生」をあきれた表情で紹介が出来ることに違和感を覚え、その後に虚しく残念な思いになるのだ。
言葉には、その言葉自体が持つ力がある。
「転落人生」って、随分ひどい言葉だなと思う。口にしながら、この人達って抵抗もないんだろうか。
事件が起きるとテレビの中の人はよく言っている。
「こんなひどいことがよく出来ますよね」
でもあなた達もコロコロと言動がよく変わる。時々、あなた達だってひどいんじゃないのとテレビを見ながら、腹が立って来ることがある。
例え遠く知らない人であれ、誰かの人生を「転落人生」と言える人を、私は人として信用出来ない。