月別アーカイブ : 2011年2月

投稿日:2011年02月08日

2011年02月08日

今年はこの数年間で書きためた曲を、レコーディングをする年にしたい。
デモ状態のものは自分一人で作ったもので、ラフスケッチみたいなものなのだ。
ここから人の手が加わることで、私にはない感覚や温度感が合わさって曲がどんどん育っていく。
音楽作りに関しては私も今までそれなりに試行錯誤をしたと思う。
自分の中にあるアイデアを形にするべく細かい所まで指定させてもらった時期もある。自分の思った温度感に仕上げる為に一人で全部仕上げたこともあったし、そうでなければ全部を預けてお任せにし切った方法もあった。
私の場合、「歌詞」は他人の血が入って意見を聞いて手直しをすると、仕上がりがよくなる傾向にある。「曲」は誰かの意見が入ると結果なぜかしらあまりよくならない。アレンジは人の手が加わると、作品としての仕上がりがうんと良くなる。
いろいろ方法を通ってみて、今の私のものさしはここに落ち着いているみたいだ。
まずは1曲「I want your smile」から取りかかっていて、出来れば10曲を1年かけてゆっくり、仕上げていきたい。
自信を持って聴いて下さいと言えるよう、そしてその後10年経っても私自身が大好きでいられる曲達にしたい。


投稿日:2011年02月07日

2011年02月07日

夢の中で、見ず知らずの人と普通に会話をしていることがある。
目覚めて、「夢だったんだ」と思うのだがあの親しくしていた人は誰だったんだろう。そんな、夢でしか会わない人の数も結構な人数になっているんではないだろうか。
未来に出会う人なのかなぁと思ったりもしてみたが、まだ今までにそういうことはない。夢で見た場所によく似た場所というのは何年かに一度ぐらいに体験するのだが・・・・。
夢の中で全く不思議にも思わず、知らない人と親しく接しているのはちょっと面白い。警戒心もなく旧知の仲のようにしているが、実際には会ったことがないのはもちろん、夢の中でも初めて会った人なのだ。
昨夜の夢は知っている人は一人も登場しなかった。なのに何の違和感もなくその夢の世界は成立していた。
前世で会っている人なんだろうか。
ご縁があるかどうかはともかく、現実にどこかに存在している人のような気はする。確認の術はないのだが・・・。
周りが知らない人ばかりでどうしていいかわからない、という夢を、だから私は見たことがないのだ。
私も知らない誰かの夢に登場しているのかもしれない。
私はどんなことをしゃべっているのだろう。
夢の不思議。
夢の中で、人は知らない誰かと親友なのかもしれないのである。


投稿日:2011年02月06日

2011年02月06日

たまにコンビニや何かの店先に犬がつながれて、飼い主を待っているところを見かける。
ワンちゃんは、近くを通る人の誰も興味がない様子。
一心にさっき飼い主が消えて見えなくなった方を見つめていて、なんとも健気な姿にジーンとしてしまうのだ。
うちのダンボもそう、家の中では私が呼んでも無視したりするのに、コンビニの前で待たせている時はず〜〜〜っと店内を見ているので、早く戻ってあげなくちゃといつもキュンとする。
そして場所は変わり、バス停にて。
バスを待っている時の私はまさしく、あのお留守番ワンコと同じ顔でず〜〜〜〜っとバスが来る方を向いている。
時間が来ればやって来るバス。少々遅れてもバスはそのうちにやって来るというのに、そういえば私はいつも待ち遠しい顔でバスがやって来る遠く道の果てを見ているではないか。
バス待ちの時間に携帯をさわっている人だっているし、特にバスが来る方を向いていない人だっているのだが・・・・。
よく人間でも「犬っぽい人」「猫っぽい人」という表現をしたりもするが、このバス待ちの過ごし方で「犬っぽい人」か「猫っぽい人」かが上手く分けられるような気がするのだ。
バス停でその人のタイプがわかる?
私は犬か。
しばらく観察をしてみよう。
案外当たっているかもしれない。


投稿日:2011年02月05日

2011年02月05日

都内、モモンガ生息中。
モモンガ、メス。
去年ぐらいからその数が増え始め、現在かなりの数になると思われる。
全体で見れば若いモモンガが多く、年を取った個体はあまり街では見かけない。
最初その生態を観察していた私だったが、近頃自分もモモンガになりつつあるのだった。
その昔、ワンレングスに黒づくめのファッションが流行った頃、彼女達は「カラス族」と呼ばれていた。私もカラス族になりたかったが、学生にはちょっとお高い値段のお洋服だったので、残念ながら手が出なかった。
女性の洋服って本当に妙な格好のものが流行るのだ。
一昨年ぐらいはブーティという妙ちくりんな形の靴が流行って、ようやく違和感がなくなったと思ったら、モモンガみたいなドルマンスリーブが一気に店内を占めるようになり、私はいつもそうなのだが、「いよいよそれしか買うものがない」状況になって、つまり流行の後半あたりに購入をしているのだった。
私もモモンガの仲間入り。
モモンガの好物はスィーツである。
外に出かける時は口紅とかも塗る。
青春モモンガは恋愛に興味を持っていて、爪を伸ばしているのが特徴である。
木から木へ飛び移るのです。
男から男へと飛び移るのです。
おかしいな。
本来はヒマワリの種や果実を食べるはずなのに・・・。
ただ今、新種のモモンガ増殖中。
肉食系モモンガがいっぱいいるのである。


投稿日:2011年02月04日

2011年02月04日

立春。
暦の上では今日から春になる。
でも私達はまだ春の感じがしない。実感もないし、実際に暖かくなっていたわけでもない。
だが、春なのだ。
「本当に、春なんですか。」
少し不満げな私の問いかけに、暦は動じもせずに答える。
そうですよ。きっとあなたももうすぐわかりますよ。
春だってことが。
そして立春のことなど忘れた頃に、いつの間に春はやって来る。そしてようやく冬の寒かった頃のことを、あの寒さを忘れて春に気づくのだ。
よく辛い時期のことを「冬」に例えることがある。
冬の次には春が来るからということも、誰かを励ますための例えによくされてきた。
「立春」もあるんだと思う。
自分がまだ冬のど真ん中に居て、春が本当に来るのかしらと考える時期。
もちろんそのあとに再度雪が降ってとても寒い日もまたやって来る。
ほら、やっぱり真冬なんだわ。
でも暦は静かに語る。
「いいえ、もう真冬ではないですよ」
「立春」は、小さなカイロのように寒い外気の中握りしめるお守りみたいなものなのだ。
玄関先に置いたユキヤナギが枯れ枝から小さな芽をつけはじめた。
ユキヤナギが咲いたらいつの間にか春は目に見えるように姿を現す。
自分を変えようとなんてしなくてもいい。
今信じて頑張っていることを手放さないよう。
あともうちょっとだけ頑張ろう。
そのままの自分でいいのだ。
春はすぐそこ。


投稿日:2011年02月03日

2011年02月03日

節分。
昨日までは今日が節分であることを覚えていたのに、日が暮れるまですっかり忘れていたのだ。
今から出るのは寒いなぁ。
どうしよう。
一瞬面倒臭くなって行事を飛ばしてしまおうと思ったが、やっぱり豆まきだけはしようと思い直して近所のコンビニに福豆を買いに行ったのだった。
そして夕飯を終えてから豆まきをする。
まずは南側の窓を開けて「鬼はぁ〜〜〜〜外!」
すると、豆欲しさからダンボがピョ〜ンと外に飛び出して行った。
「こらっ、帰っておいで!」
「鬼は外」とやったらそのあとは早く、早く窓を締めなくちゃいけないんです。
ダンボを部屋に入れて「福はぁ〜〜〜内!」
福豆を部屋にバラバラっと撒いたら、ダンボがフンガフンガ言って食べ尽くそうとするので、お腹を壊してはいかんとばかりに今撒いたばかりの豆をダンボと競うようにして拾っているのだった。
ダンボも豆まき経験は8回目ぐらいになるので、一年目は「これは食べ物?」という風に興味を示していなかったが、今や豆まきの豆を一つでも多く自分が食べたいという欲でいっぱいになっている。多分、彼は「節分」という行事を思い出したのであろう。毎年、豆に飛びついていく勢いが増してすごく卑しくなったのだ。
その後、外に豆を撒く時には犬が飛び出ないようタイミングを計って撒き、福は内の時は撒いたら犬と競って豆争奪戦を繰り広げ、全く風情もないまま豆は全部なくなった。
ダンボはまだ拾い残しがないか、あちこちをパトロールしている。
「鬼は外」に行ったかもしれないが、「ハイエナは内」な我が家だ。
あまり慌てて豆まきを終えてしまったので、何か忘れているなぁと思っていたら、やっぱり・・・・。ダンボは年の数以上の豆を食べたが、私は年の数だけ豆を食べるのを忘れてしまった。
お腹、壊さないでちょうだいよ。
こんなに犬がフンガフンガ言って食べ回るのなら、豆まきの豆はドッグフードにした方がよかったのかもしれない。
本末転倒な考えが浮かんだ今年の豆まきなのであった。


投稿日:2011年02月02日

2011年02月02日

夜、RIKOちゃんのレコーディングでエレピを弾きに行った。
多分、自分が「演奏」の中で一番得意なものはリズムカッティング系のバッキングピアノだ。一番好きであることには間違いは無い。
例えば「8小節間ここは好きにソロを弾いて下さい」と言われるとその8小節は「好きに」どころかその間は私にとって悪夢なのだが、「5分間この曲にず~~~~っと好きにカッティングを弾いていて下さい」と言われたら嬉しい。
5分間でイインデスカー。
だって私は18歳の時に、16分のカッティングピアノというものの猛特訓を受けて以来、カッティングピアノが大好きになり、他の練習の何よりも練習修行に励んできたと思う。言い方を変えれば他のジャズの勉強やソロワークなど他のジャンルは伸び悩みレベルはイマイチ、ということになるのだが、自分の持ち物の中で一番自由度が高いものは、カッティング系バッキングのピアノだと思う。
世の中の鍵盤弾きの人の中で「我こそはカッティングバッキングピアノが大好き」
友の会なるものがあったら、私は絶対に入会する。バッキングカッティングピアノの楽しさを語り合いたいし、バッキングカッティングピアノだけのセッションというのがあればやりたい。絶対にソロなんかしないセッション、素晴らしい。
それほどバッキングカッティングピアノが大好きな私なのだが、残念なことに私にリズム系カッティングバッキングピアノの依頼をしてくれる人は、ほぼ居ない。
誰か機会を下さい。
いっぱい弾きたい。
そんな中、RIKOちゃんが声をかけてくれた。
私の大好きなバッキングカッティングピアノを・・・・。
弾いてもいいんですかぁああああ!!
ありがとぉおおおお~~~~~~~~っ。
楽しい、楽しい、楽しい・・・・。
バッキング中の私は本当に楽しかった。
が、曲が終わりに近づいて来て、「そこからソロ」に変わった途端、やはり苦手なソロに苦しむ私なのであった。ソロは私にとって永遠の苦行になるであろう。
バッキングカッティングピアノ、大好き。
RIKOちゃんの曲はかっこいい曲で、とても楽しいレコーディングだった。
仕上がりが楽しみなのだ。


投稿日:2011年02月01日

2011年02月01日

駅にあるエレベーター。
閉まるのが遅いのと、閉まってから動き出すのもちょっと遅い。
なのでエレベーターに乗った人間と乗れなかった人間とが、数秒の間目を合わせるということも割とあるのだ。
乗れなかった側に立った時、私は「今だったらまだ開けられるんじゃないの?」という気分になり、ちょびっと期待をかけるのだが、だいたいそんな時は2秒後ぐらいにゆっくりとエレベータは動き出すのだった。
<ちょっと!見捨てて行ったわね>
<なにさ!この裏切り者!!>
そんな時はエレベーターに乗った人間達に見捨てられたような気分になり、恨みの目つきで睨んで見送っている。
が、逆の立場に変わった時はおかしなもので考え方は変わる。
ゆっくりエレベーターの扉が閉まり、さぁ今から動き出すぞという時になって、恨みの目つきでこっちを見ている人が居る。
<今ならまだ開けられるんじゃない?>
無言のお願いを扉の向こうでしているのだが、今「開」のボタンを押しても、もう遅いタイミングなんですよ、ということがある。
<ねぇ、どうなの>
<いやぁ、ちょっともう遅いんですよ>
<そんなことはないんじゃない>
<いや、まじで。あ、もう動き出します>
そんな目での会話のあと、エレベーターがようやく動き出す。
<あなたたち、裏切り者!>
裏切り者呼ばわりの「エレベーターに乗っている組」は、エレベーターが動き出してあの怖い顔が見えなくなってくれるとホッとする。
例えばこれが病院の中なら、出来る限り乗ろうとしている人をエレベーターに乗せる空気が漂っているが、駅の中はややクールな人間関係で成立しているように思うのだ。
駅にあるエレベーターは、パニック映画の中に出て来る「助かる組」と「見捨てられる組」のようなあれと同じ景色が繰り返されている。
<だって、あれはしょうがなかったのよ>
置いてけぼりにした人間の顔が消えるとエレベーターの中では知らぬ物同士、言い訳の心を一つにしているのである。