はじめに

〜このWeblogの生い立ち〜

2000年1月〜2001年の暮れまで、私は目覚めてから眠るまでを病室のベッドの上で過ごしました。入院生活が1年と4ヶ月が過ぎようとしていた頃、友人が「無料のHPがあるけど、気晴らしに書いてみたら?」と、提案をしてくれたことがきっかけとなって、ポケットボードという物を入手し、日々思うことを綴り、それを友人の携帯に送ってUPしてもらうという形で日記はスタート。住む場所、職業、性別、何も明かさずに始めた日記でした。

「wasa-b」は、当時お気に入りだったわさびふりかけから命名。

投稿日:2007年03月19日

2007年03月19日

もう一生直らないとあきらめているのが、落とし物と失くし物癖だ。いつからこうなったのか思い出せないが、京都時代からの友人に去年再会をした時に、その頃からしょっちゅう落とし物と失くし物をしていたと聞いたので、自覚がない時期も含めたら、恐ろしく長い期間、物を落とし続けているのであろう。
イヤリングにピアスは多数。切符も多数。先日は買ったばかりの服を落とした。お金も落とすし、着て行った上着も失くす。サングラス等の小物は、買った時点で「いつまで一緒にいられるのかなぁ」ということをまず案じるし、普通に肩に掛けていた鞄を歩きながら落としたりもする。その時は見知らぬ人に鞄を持って追い掛けて来てもらい、そこで初めて「あら、鞄を持っていない」と気がついたのだった。
もう、慣れている。
手で持つ物、身につけるもの、身近に携帯しているものが頻繁に失くなり、そしてその瞬間に自分は全く気がついていないということだ。
泣く泣く迷子になったのか、それとも逃げるなら今がチャンスだと、狙って逃げて行ったのか。
私、何か臭いのでしょうか。
ゴミだけは、いつも鞄の中にいっぱい入っている。
元、自分の物だった物達を集めて同窓会を開いたら、どんな物達に会えるのか。きっと楽しいだろう。そして「これって、全部で一体いくらになるんだろう」と、自分が無駄遣いをした気分に襲われて、軽く落ち込んだりもしそうなのだ。
お〜い、みんなどうしていますか〜。
物にもいろんな性格があるのだ。
<お前、帰るのか、アイツんとこに>
<なんだか、かわいそうに思えてきちゃって>
<やめとけ、やめとけ>
<う〜ん、もう一回だけやり直してみるわ>
<後悔したって知らないぞ〜>
本日、杉並区役所から「手帳を落とされましたよね」と電話を頂いた。
今度こそ、もう失くさない。
大事にするから。
私は本気で誓う。
他人と暮らすのは難しいと言うが、物と一緒に暮らすのも難しいことなのかもしれない。
私と同じように、落とし物や失くし物が多いという人は、物を失くすという感覚ではなく、物に捨てられたと考えを改める方がいいのである。


投稿日:2007年03月18日

2007年03月18日

今日は「東京下町食い倒れツアー」と題して、会社のTちゃんとお仕事でお世話になった浅草ッ子のSさんKさん、それから代々浅草という浅草ど真ん中で育ち、生粋の浅草人のHさんの5人で、Hさんに案内人となってもらって地元浅草を紹介してもらった。
浅草には度々私は探検に来ている。浅草寺にはなやしき、その場で焼いて売っているせんべいを買って食べ歩いたり、裏道や小道にバス巡りもした。隅田川から船に乗って川を下ったりもしたこともあったりで、一応浅草の簡単な地理は頭には入っているが、それでも浅草は知らない。
京都の場合、京都に行ったという人の話を聞くと、接点はたいてい「お寺」か「嵐山」せいぜい「天一のラーメン」となり、大阪となると必ず道頓堀が話題となるが、私は京都なら上賀茂近辺や北山通りや特に何もない紫明通りに連れていきたい。そして大阪だったら、恐怖の阪神高速環状線に案内して、そのままブーンと南港まで行って「これが大阪です!」高速道路を背に海を見せたい。まぁ、ただそれらは自分の好きな所でしかないと言われてしまえばそれでおしまいなのだが。
今日の浅草巡りは美味しい物にもたくさん出会えたが、昔はこんな景色だったんだよということを聞かせてもらいながら歩く歴史探訪の旅となった。
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ガイドブックにも載っていた甘味屋さん、浅草寺の中の小さな池に架かる橋、何気なく通り過ぎてしまう塀にさえも何かしらのエピソードがある。Hさんは浅草寺幼稚園に通っていたそうで、ここが日常の遊び場だったのだそうだ。「あそこが入り口でね」と、幼稚園には見えないアルミの扉を指さす。
途中のべっこう店ではみやげ物屋のおかみさんが、「あら、この間お店に行ったのに」とHさんに声を掛ける。Hさんはこの辺りのやんちゃ坊主だったんだろう。長身の紳士なのに”ヒデオちゃん!”と呼ばれているのがおかしかった。
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子供の頃には、瓦割りの見世物などが街頭であったようで、この辺りの子供達はお客さんに混じって見物をするだけじゃなく、「こんな子供でも瓦が割れます」という演者としておこづかいをもらって見世物の”瓦を割る子供”として出たりもしたのだそうだ。私の日常や育った町にはない独特の世界の中で、それでもやっぱり子供達はその中で目一杯楽しいことを見つけて、日々は冒険だった。
映画が栄えていた頃の映画館通りのこと、大衆演劇場のポスターにストリップ劇場の看板。吉原が焼け野原になった時の様子やおじいさんから伝え聞いたという昔話。
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どこかに出掛けた時に、美しい景色に感動をして写真に収めたら、自分の感じ方といつも違ったものになっている。最高のカメラ日和だったのに、結局どの写真も家に帰って見たら、目で見て感じたものをうまく撮れたのは一枚もなかった。Hさんの頭の中に広がる映像を私達の頭の中にも映して、それらの風景を感じる。
とても写真には撮れない浅草だ。
整備され観光客が歩く一本一本の道に過去の風景がある。浅草にあるように、それは今住んでいる家の辺りにも。
私の実家がある高槻の家のあの辺は、住宅地になる前は田んぼか沼だったと聞いている。それ以上のことを知っている人が居たら、話を聞かせてもらいたいな。
浅草を巡りながら、私は同時に何のつながりもない自分の育った風景を重ねていたのだった。


投稿日:2007年03月17日

2007年03月17日

今日は東京タワーが一日だけ、緑色に点灯しているそうだ。アイルランドとの国交50年を記念して、友好の証としての点灯なのだそうだ。
私は50年も仲良くしている人はいない。まだそこまで年齢が達していないので、知り合って50年になる人がまず居ない。50年のお付き合いっていいなと思った。
同じ港区で、場所は離れてはいるが私がお世話になっている事務所は、その港区の六本木という所にある。駅は六本木もしくは乃木坂という駅が近い。私は乃木坂で下りてそこから歩いて行くのだが、自分の描く「港区」「六本木」という印象とはちょっと違って、会社付近は割と静かな場所なのだ。
今の事務所に移籍する時は、前の事務所がもうアーティストを抱えられない状況にあった。路頭に迷うのをせっかく「ウチに来ませんか」とY氏が声を掛けてくれたというのに、私はなかなか切り替えられず、当時は自分一人がポンと移動をするという決断が出来なかった。
「せっかくお声を掛けていただいたんですが、気持ちが決まりません。すみませんでした」と挨拶に行って、泣きながら帰って来たのが12年程前のことだ。
なんでそこで泣くのだ。
よくわからない。
全く、公私混同の失礼なことをしたと今は思っている。
それから前の事務所の人の後押しで、結局お世話になることになったが、今度はその数年後に病院生活を送ることになる。
よく見捨てずに置いてもらえたのだ。
もう10年以上も、お世話になっている。
50年の国交と同じ位、いやそれ以上に12年は深く濃い時間だった。
東京タワーのライトが緑に光る。
港区は、かつてテレビ局にクイズの応募ハガキに宛名を書いた、それぐらいの遠い街の名だった。
アイルランドとはどんな思い出があるの。
私もこの会社に来てからたくさん思い出がある。
何かが続いて行くためには、片方だけが一歩前に出てもだめで、お互いがしっかり足を踏み出さないと年月は重ねてはいけないのですね。
続かないものがたくさんあるから、私は数少ない失いたくないものを繰り返し握りしめ直してきた。
国も人も、全て相手があることはみんなそう。
一歩踏み出して。
どこまで行こう。
もちろん、行けるところまで。
大切な人達へ。
知恵を出し合って行けたらいいな。
これからも、こんな私を
どうぞよろしくお願いします。


投稿日:2007年03月16日

2007年03月16日

今日はかしわ哲さんのラジオ番組にゲストに出させていただいた。
かしわさんと初めてお目にかかったのは、去年の12月、今お世話になっているウエブラジオ、kizznaFMの設立パーティの時。長身で髪は半分モヒカン、服装も個性的でたくさん人が集まる中で人目を一番引いた。その日はプロデューサーのY氏かディレクターのK氏に紹介をしてもらったんじゃないかと思う。
その時に少しお話をさせてもらったが、かしわさんはものすごく目力が強くて、ふとこちらが目をそらしてしまいそうなぐらいの強力なオーラが出ていた。なるべく私も、普段人の目を見て話をするようにと気をつけているが、その目ビームはとにかく強力だったのだ。
「なにか楽しいことが一緒に出来るといいですね」
最後は年上の男性の持つ独特の包容力が後味に残った。
かしわさんは、元々のスタートはシンガーソングライターで、その後NHKのうたのお兄さん、そして現在は執筆活動で童話作家の顔も持つ。
今、私が外に出て何らかの仕事をする時には、必ず自分のした病気のことが一緒について来る。私自身もそれはそれで自然なことで、特に自分からピックアップすることもないが、黙っていたいということもないので、何気ないところで「体」の話になることは多いのだが、意外なのは会話をしているうちに、実は自分も・・・とご病気や怪我で仕事を一時中断されたという話を伺うことがとても多いということだ。
公にしていない人も居るので、私は自分の中でその話は止めているが、とにかく知らないだけで事情を抱えている人がこんなに多いとは思わず、そうしたらかしわさんも今日は収録の中でご自身がご病気をされた話をポロっとされたのだった。
”世界をバリアフリーに”が、かしわさんの現在の活動のテーマだ。収録には乗らない場所で、かしわさんは自分の想いを情熱的に話をされた。
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今日は一緒に一曲、演奏をした。
本来私は人見知りがちだ。人とどんどん出会って輪を広げたいという好奇心はほぼなく、縁あって知り合った人との関係を深めることの方が好きなので、何か機会をいただかなければ自ら率先して、出会いを作りに行くこともしない。
本当に人見知りな方なのだ。
だが短い時間、今日はかしわ哲ワールドに引き込まれ、私は気を許してたくさん話をしていた。
「チョコレート」という響きや「残業」とか「約束」といったたくさんの言葉がある中で、「バリアフリー」という言葉に対しては単語自体が持つ緊張感があると感じてきたが、今日の収録ではなんでもない楽しい会話の中に、自分の緊張がほどけて、思わず笑ったり自分のことを夢中になって話している個所がたくさんあった。
「また、是非何かしましょう」
やはりスタジオを出る時に、今日も年上の男性の持つ独特の包容力が後味として残った。
言葉を用いずに、バリアフリーをかしわさんご自身に体験させてもらったゲスト時間だった。


投稿日:2007年03月15日

2007年03月15日

近くのバス通りは細い街道にもかかわらず、交通量が結構多いのだ。おまけに道が細いので、信号待ちをしている車があると、歩く場所がなくなってどこを歩いたら轢かれずに済むのかということを、この道を歩く時にはよく考えている。
轢かれそうになるから、こっちに寄ろう。
轢かれないうちに、こっちに渡ろう。
轢かれかけたので、こっちを歩こう。
約30メートルの距離の間、私はフツーの顔でテクテクと歩いているが、頭の中をパカっと開けると、いつもそういう会話がなされているのだった。
その時々で判断をする、私の轢かれない為の対策。
今日は「轢かれないうちに、こっち側に渡ろう」のパターンで、フツーの顔をして道を渡っていた。
ら、前方で視線を感じた。
「こんにちは」
「あ!」
あ。イケメンさん。
しまった、ここは派出所の前ではないか。
一瞬、こういう渡り方は交通法規的にはどうだったんだろうと、昔運転免許の学校で習った授業の中のことを思い出そうとしていた。その間数秒、考え中につき私の足は止まり、道路の真ん中で立ち止まった形となってしまったのだった。
だがここは渡っていいのか悪いのか、結局自分でもわからない。
突っ立っていたら、「気をつけて」とイケメンさんが笑って言った。
”信号、青”
”なんだかよくわからないが、取り合えず「よし」”
イケメンさんが合図をくれたので、動き出せたのだ。
イケメンさん、ありがとう。私はすっかり貴方を信頼しました。緑の紙を本当に取りに来てくれたこと、そして今日は信号のかわりもして下さいましたね。
それとこれとは違うのに、ウチにはもう「泥棒が入らない」という安心まで、なんだか得ている。
先日、防犯の心得を教えてもらったにもかかわらず、”もう鍵は開けたまま、網戸で寝ても平気だわ”と、一気にゴールデンレトリバー並みの無防備状態に入った私なのであった。


投稿日:2007年03月14日

2007年03月14日

阿佐ヶ谷住宅というのがある。今の家に引っ越してここをバスで初めて通った時に、目を見張って景色を眺めたところだ。駅に向かう途中の道をバスが右に曲がると、ふと都内とは思えないゆったりとした敷地の中に、洋風の一見平屋に見えるその住宅群は突如現れる。
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同じ形をした棟続きの家が並び、それぞれ一軒ずつには庭がある。植えられて長い時間が建つんだろうなぁと思われる木々が、そこここで手を伸ばし、一日中太陽の光が降り注ぐだけの空間がそこにある家にも木々にも与えられている。
阿佐ヶ谷住宅南
阿佐ヶ谷住宅東
バス停は停留所を3つぐらい置いていて、バスはこの中の緩やかなカーブの道を行く。急いでいる時にでも、ここを通る時間は、よく私は遠くにドライブにやって来たような感覚になるのだった。
これだけの敷地をこんなに贅沢に使うのはもったいないと思う気持ちと、このまま置いておいて欲しいなぁという気持ちが入り混じり、そして更に「ここだったら、住んでみたいなぁ」という憧れを抱きながら、景色を眺める。
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ここは昭和33年に建てられた公団住宅で、取り壊しが決っている。もう人が住んでいない棟もある。古く汚れている個所もたくさんある。それに決してお金持ちの家並じゃない。
あれはあじさいの木だな。
これは・・・桜。
まるで避暑地の一角のような。
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私は花が好きだが、手入れが行き届いた年中花満開の綺麗な庭よりも、雑草が少し伸びていたり花つきが悪い鉢も一緒にそこに置いてあるような庭の方が好きだ。その方が花木達が自由にやれている気がするからなんだろう。ここの建物の古さや傷みは、それと同じ”足りなさ”がある。だから私は和むのだ。
昭和の子供達が、見てもいないのに自分の思い出のように浮かび上がる。
ランドセルを置いて遊びに行っても。
子供達はここに帰って来る。
どんなやんちゃな男の子も。
お母さんに叱られるからじゃない。
お母さんのところに自然に帰ろうと思うだけ。
阿佐ヶ谷住宅を通る時。
何故かしら私は
全てを忘れて優しい気持ちの自分に会える。


投稿日:2007年03月13日

2007年03月13日

体調不良の日。
季節の変わり目だからなんだろう。
息が切れ、グッタリする。
こんな日は寝るに限る。
今日は外出の予定がなかった。
よかった。
う〜〜む。
本当に、渋谷マウンテンに生気を奪われてしまったのだ。


投稿日:2007年03月12日

2007年03月12日

ラジオの収録に渋谷に行った。
渋谷駅から246を渡るのに、あの歩道橋以外に方法はないんだろうか。ないと聞いたことがあったが、あれを渡るより平坦な道を、少し遠回りでもいいから行けた方がいい。
渋谷マウンテン。たいしたことのない歩道橋に見えるのに、いつもあそこで私は力尽きるのだ。やっとこさ上に上がれたと思ったら橋の上は小さく揺れ、そして緩い坂になっている。緩い下りになる辺りで顔はブルドッグになり、下りの階段の時はヨボヨボになっている。上って下りるまでに自分の体が30年老いるという、人の生気を吸い取る恐怖の歩道橋なのだ。
だが、結果。
本当に橋以外の方法は見つけられなかった。しかも橋近くはこれまた緩やかな上り坂になっているので、歩き回って「ない」とわかった時点で体力を消耗してしまっていたのだった。
はひーーー。
お、おっさんよ。そこにタンを吐くのはやめておくれ。今日はよける元気がもう残っていない。
今日は歩道橋を渡るだけのために二回も喫茶店でうなだれてしまった。まず渡る前、そして渡った直後。
タクシーで行った方が安かった。
電動羽根が欲しい。
私は買う。
歩道橋をひとっ飛び。
みんなでパタパタ飛んで、246を渡ろう。


投稿日:2007年03月11日

2007年03月11日

渋谷DUOにリクオくんのライブを観に行った。
リクオくんのライブを初めて観たのは今から14〜15年位前、その当時もピアノ一本で、それからアコーディオンも弾いていたがそのライブを観て圧倒されたのを覚えている。
水の中を自由に泳ぐ魚みたいだった。
すごい。
すごいというのが、私の印象だった。
だが、今私がリクオくんのライブについて一言で何か言葉を見つけるとしたら、それは「すごい」ではない。
音楽的に圧倒される部分は変わらない。相変わらずピアノも歌も、自在に水の中を泳ぐ魚のように自由だ。それからちょっといやらしい言い方になるが、その技術は同業の厳しい耳で聴いても、ピッチプレイ共に本当に才能を感じる。
でも違う。メインはそこには全くない。そんなにすごい才能の部分が、リクオくんのライブではただのアイテムとなり、とにかく歌の中の言葉に直球で胸にガツンとやられてしまう。今のリクオくんのライブの「すごくいい」と思うところだ。
男女共、平等に揺さぶる気持ちを彼は歌っている。
大人になると、なくしてしまうものが多くなると言われているが、私はむしろその逆だと思う。守らなければいけないもの、責任や捨てられないものが一向に整理出来ないまま増える一方で、多くを抱えて沈みそうになっているのが大人の真実なんじゃないかと思っている。
矛盾や辻褄が合う日なんて、もうやって来ないのだ。整理出来る日も来ない。それを認めて、それらに囲まれながらも、今心をどう解放していこうかと考えて行かなければ、いつまでたっても本当の自分に戻れる時間や場所なんて得られない。
その矛盾をリクオくんはステージの上で、正直に歌っている。勇気を持って言葉に代えていると思う。ある曲では、ずっと大事にしたい女性へ捧げる愛を歌い。そしてまたある曲では、理性で止められることが出来なくなってしまったもう一つの愛も歌う。人生観が伺える曲もある。孤独な時間を歌う歌もある。君が居ないとダメだと弱音を吐いたかと思えば、別の曲では頼りがいのある男性的な一面もまた見える。
それらは作品。だから、リクオくんの私生活とリンクさせる必要は別にない。それぞれのストーリーも繋がらなくていい。だが私にはそれらを通して聴いた時に、一人の人間がそこに歌を通して立っている気がした。一人の人間として繋がっている気がした。明るい感じで進んで行くライブでありながら、私にはドキっとする程リアルだった。
今日はフルサイズのライブ。
だからたっぷりとそれが感じられた。
実体のない大人というカテゴリーに、自分を合わせようとして、そして大人は勝手に自分で息を切らしている。
去年、リクオくんのライブを観て、そして私はもう一度”自由に”歌を歌いたいという夢を持った。自分が次にやりたいと思っていたのは、矛盾や辻褄の合わない中のリアルな大人、女側からの歌だったからだ。だから今は、女性の持つ感情の起伏をもう少し表現出来るだけの声を取り戻したい。そこを見据えて、あれから私は過ごしている。
帰り道、真っ直ぐ帰るのが惜しくなったので、「今日、今からスタジオ空いていますか」と、電話をしていた。
大人は大切なものをなくしたのではない。
大切なものを抱え過ぎているのである。


投稿日:2007年03月10日

2007年03月10日

薄笑いの人とすれ違った。
その人は自転車に乗っていて、一人だったが確かに薄ら笑いを浮かべていた。
私が目にしたのはほんの2〜3秒。
だが、薄ら笑いを浮かべるタイム的には、人は数秒ぐらいなんじゃないのか。せいぜい長くても15秒ぐらいがいいところだろう。
何かおかしかったことを思い出していたのか。
嬉しいことを思い出していたのか。
私が見ていたことに気付かないまま。
行ってしまった。
薄笑いは、他人には薄気味悪い笑い。
でも「本当の笑い」だ。
思わず笑みがこぼれたその理由があったのだ。
IMGP7125.JPG
自転車で走って行った。
あの人は。
楽しいことを頭に走らせて。
私もそのあとでおかしくなる。
私も薄ら笑い、か。
ごきげんよう。
風のように通り過ぎた、
見知らぬ人よ。