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投稿日:2010年11月10日

2010年11月10日

久しぶりにダンボと長い散歩に出かけた。
緑道の木々の色が変わってきていて、今年ももう晩秋の頃なのだなぁと思う。
人間は今からが忙しくなる時期になる。師走に入るとほんとうにやることに追われて日にちばかりが過ぎてしまい、あっという間に年末になってバタバタのまま滑り込みセーフのような形で年を越している。
木々を眺めていると晩秋にしっかり一年を終えて休むことは、次の花を咲かせる時期のためには大きな意味を持つのではないかしらと思う。木々はバタバタもしないし、唐突に一年を終わらせもしない。冬眠する生き物達もそうで、人間だけが余裕がなくせわしなくしている。
年末の流れというのは、人間達とってはそれがあたりまえになっているので、いちいち気にならないのかもしれないが、もう少しこの慌ただしい感じがあたりまえでなくなるのはどうかなぁとも思うのだ。
少しずつ色づいていく木々達。
一日の夕暮れ時は秋に似ている。
もうすぐ日が暮れるよ。
もうすぐ季節が暮れて行く。


投稿日:2010年11月09日

2010年11月09日

和歌山県御坊市所蔵のカラス天狗のものとされるミイラが、和歌山市で開かれる展覧会を機会に創りものであるということが公表された。
このミイラは高さが40センチ弱。粘土と鳥の骨をつかって作られたものであったことが県の調べでわかったのだそうだ。それが3年前。当初は夢がなくなるということで公表されなかったそうだが、今回の展覧会で結果を公開することにしたらしい。
創りものだったのか。
私は「これがカラス天狗のミイラです」と言われたら、「うそぉ~」と言いながら信じるタイプなのだ。
”人魚のミイラ”や”カッパのミイラ”も「うそぉ~」と言いながらどこかで信じていたのだが、ではあれも創りものだったということなんじゃないのか。と、一気に気分が醒めてきた。
こういうものを作った人に対して私は「何の為にこんなものを作ったのかしら」という疑問を抱く。少なくとも自分はこういうものを作ってみようというアイデアは湧かないし、きっとアイデアマンで頭のいい人物なんだろうなとは思う。だが、咄嗟に「騙された!」と思った私としてはその頭の良さをこんなことに使ったことに少々腹が立っている。
同じ<にせもん>でも・・・
サンタクロースが居ないということを認識してから、今に至ってもなお私の中ではサンタの存在は温かなままだ。
そしてカラス天狗のミイラは何か黒い思惑の匂いがする。
「遊び心で作った」「信仰上で作った」といったものでなく、根っこにそんな邪なものがあるように思えてならない。
愛のないものは嫌いなのだ。
それにしてもよく出来ている。粘土と鳥の頭の骨を使って頭の部分を作り、くちばしや手足といった鳥に見える部分など要所要所は鳥の骨が使用されていて、骨格から使用されたのは二羽の「トンビ」とみられているらしい。
実は今回のミイラが創りものだったということは3年前の調査でわかっていたことだったのだそうだ。当初は夢がなくなるということで公表を控えていたらしい。にせものだったという事実を知ってガッカリはしたが今回の公表はやはり勇気が要ったと思う。こういうことこそが誠実で私自身心あたたまって救われる気持ちになるのだ。
ミイラになったトンビが一番災難だった。
「オレら、カラスとちゃうねんけど」
拝んでいた人に向かって何度も叫んでいたに違いない。


投稿日:2010年11月08日

2010年11月08日

11月8日は「いい歯の日」「いい歯並びの日」なのだそうだ。
私は小学4年生か5年生の頃にクラスの男の子達に「出っ歯」というあだ名をつけられ、その後「樫の木モック」というアニメの主題歌の替え歌の「吉川出っ歯」という歌まで作られて毎日がブルーだった。その頃の男子達というのは粗暴で、からかうのがエスカレートしてくる。追いかけてきてランドセルを蹴ったりもされたのだ。あれは恐怖だった。実際に蹴られると痛かった。当時私にとっては拷問でしかなくあれをいじめだとして学校に行かなくなってもよかったぐらい私自身は憂鬱だったのだ。
確かに歯が大きくちょっと前に出ている顔だった。
今なら気にもしないだろうが、当時の担任が懇談会で母に「子供はなかなかよく見てますねぇ」と、ついたあだ名の方に感心をしたので、母も私を不憫に思ったんだろう。ある日「お姉ちゃんは出っ歯だから」ということで、隣の駅の水無瀬にある歯医者さんに歯の矯正に通うことになったのだった。
2年ぐらいその歯科医院には通ったと思う。
毎日朝起きると入れ歯みたいな器具をパカっと口の中に入れる。すると前歯のラインに沿って針金みたいなものがはまるようになっていて、それをして学校に行くのだ。で、寝る時にはそれを外して寝るのだが、歯医者さんに通うとその針金の締め付けをだんだんキツくしていくので、調整後はしばらく歯の辺りがなんだか痒い感じがして落ち着かなかった。
しかし、その針金を毎日つけるだけで私の歯並びは結果変わった。結局出っ歯はそれほど直ったわけではなかったが、両側にあった八重歯が見事にひっこんで、歯の模型みたいな歯並びになったことは確かなのだ。
ニっと笑って口に針金がついている方が、見た目にはうんと違和感があった。
が、男子達は私の歯についての新曲を作ることはなかった。
お題が難しすぎると今度はよういじらんかったのやと思う。だいたい替え歌も「出っ歯出っ歯、ヨシカワ出っ歯、出っ歯出っ歯、ヨシカワ出っ歯〜」までしか歌はなかった。作詞能力はきわめて低かった。
「樫の木モック」のお話は最後にモックは木の人形から人間になった。
そして私は歯の模型みたいな歯並びを得ることとなった。
めでたし、めでたし。


投稿日:2010年11月07日

2010年11月07日

老犬や小型犬が、ベッドやソファに飛び乗って足腰を痛めない為のペットステップというグッズがある。スロープタイプと階段タイプがあって、3段の階段のペットステップを買って帰った。
ダンボも何年か前に膝を痛めている。もう一生治らないのでこれより悪くならなうように注意してあげて下さいと言われて以来、低反発シートを二段重ねにしてそこをステップにさせていたのだった。
それから「ここ!」と何度も教えて、踏み台であることをダンボにも覚えてもらうことが出来た。そのシートを使ってベッドの上り下りをするようになっていたのだ。
「ダンボ、ちゃんとした階段のを買ってきたよ」
「ほら、これダンボちゃんの」
ダンボのグッズを買って帰った時、それが食べ物でない場合は私だけが盛り上がっていることが多い。おもちゃでさえ「食べ物じゃないならいらないよ」と冷めた感じで私の元から去って行く。ダンボを盛り上げる為に私は大げさにタコ踊りをして見せて、<なんか楽しいことが起こっているっぽい>雰囲気で犬を釣る作戦に出てようやく、買ってきたものを見てもらえるチャンスが得られるのだ。
「ほらっ!これはダンボの!」
「ダーンボちゃんの!」
犬用の階段を手にして着ぐるみのお兄さんのようなオーバーアクションで踊ってみせるのだが、着ぐるみでも何でもない生身だとなんとも滑稽な姿なのだ。
しかし長年の私の努力のかいあって「ダンボちゃんの」という単語の意味は覚えたようで、「これは自分用のもの」である認識をダンボはする。
認識をしたのだが・・・。
ベッド横に設置したペットステップを使わずに、いきなりぴょーんとベッドに飛び乗るダンボ。そして飛び降りる時もペットステップにかすりもしないでノンステップで降りてしまうのだった。
「ダンボのだよ」
練習が必要かな?と思ってベッドの上り下りを教えたのだが、その度にステップの真横をノンストップで飛んで降りて飛んで降りて・・・ダンボはペットステップを使うことはなかった。
コミュニケーションって難しい。
しょうがないので、最後は私が犬になりきり・・・・
「ワンワン」と言いながら自分で上って降りてみて、私がペットになって初日は終わったのであった。


投稿日:2010年11月06日

2010年11月06日

とっても小さかった子供の頃。女の子たちは「ママ」の話しているような言葉使いの真似をしていた。その一方で男の子の使う言葉は「グワーッ」「ゴォオオオ」「ガキーン」などの擬音語で文章はあまり駆使していなかったように思う。
「グィーーン」と旋回して着地する飛行機だったり、「グォーーー」と音を立てながら大きなものを動かすクレーンだったり、「ドドドドド」という道路工事のドリルの音だったり・・・。
女の子たちにはちっとも興味のない世界だったが、男の子はみんな楽しそうだった。大きなものを作っている、またはそれを操作しているということが男の子たちのあこがれだったのだ。上手く説明出来ないけれど、あの成り切った「グィ〜〜〜ン」や「バキューーーン」や「ガガガガガー」が小さい胸の中でははちきれんばかりのロマンを表していたのだと思う。
そして大人になった今も男の人達は「カシャ〜〜ン」「ゴォオオオ〜〜」が好きなのである。そういう仕事には就かなかったが、そこからの流れで「ガンダム」のフィギュアを集めたり車好きになったりと、ベースはやはり擬音語で成り立つものばかりに結局は興味がある。大きなものを作る現場や、それを操作することはやっぱり一生を通じてあこがれの「男の現場」なんじゃなかろうかと想像をするのだった。
モリナガ・ヨウさんの「モリナガ・ヨウの土木現場に行ってみた!」
morinaga.jpg
ここにはそれら男の子たちの大好きな「音」が聞ける場所が詰まっている。しかも普通なら中に入れないような場所ばかりで、秘密の要塞の覗き見するような特別感もある。こういう場所は全ての仕事が終わったあとで出来上がったものにしか私達は触れることがないが、大きなものを作る過程はやっぱりかっこいい。完成したらここを車が走るのだ。完成したらここに水が流れるのだ。完成したらここに地下鉄が走るのだ。
この過程の鉄骨むき出しの「これは何になるのか?」という段階に女子は興味を持たない。が、男子はワクワクするのだと思う。
モリナガさんも「ガァ〜〜〜〜〜」「グィ〜〜ン」と言いながらそれらを絵にしたんだろうなぁ。
いつまでたっても飽きずにモさんの本を眺めている大人の男の子が見える。
ふふっと笑えてきたら・・・・。
表紙のクレーンが「ウィ〜〜〜ン」と言いながらこっちを向いたのであった。


投稿日:2010年11月05日

2010年11月05日

放射線科に行った。
今月から放射線治療が始まるということは聞いているのだが、どういう流れになっているのかわからない。取りあえず診察券を出して待っていると、今日は放射線を照射する場所を決める為のCTを撮ったり印をつけたりするのだそうだ。
ここでは切ったり針を刺されたりすることがないということがわかっているので、緊張しないでわりと平静でいられる。機械が設置してあるベッドに仰向けになると何かで測定をしているみたいだった。
しばらくして、技師さんが私の体にマジックで印をつける。これから治療を受けるのに、この印で位置決めをする大事な印みたいで、上半身のあちこちにマジックで線を描かれているのがわかる。そしてこの線が消えないようにと上から防水のシールを貼られてこれで知らない人が見たらふざけてイタズラ描きをした身体に見えるだろう。これで治療が終わるまでうっかり温泉に行ったり、スパに行ったり出来なくなった。
「では、来週治療計画を決めますので」
来週はまだ治療ではないようで、よくわからないまま今日も来たが今日は治療の為のデータ撮りの日みたいだった。
レントゲンやCTを撮る放射線科は一階にあるのだが、PET検査や放射線治療の場所は地下二階にあるので、エリアのどこにも窓がなくやや重苦しい感じがする。扉も割と厳重な厚い扉が使われているのでそういうこともあるのかもしれない。
今月半ば以降には、毎日ここに通っているんだなぁ。
毎日同じ場所に通うのは大学生の頃以来になる。どこかちょこっと寄り道をしたり、美味しいランチのお店を開拓したり、普段は来ることのない文京区近辺をこの機会に歩いてみるのだ。


投稿日:2010年11月04日

2010年11月04日

ピンポ〜ン。
インターフォンが鳴るとうちの犬はすごい形相で興奮して歯を剥き出して吠えるのだ。
しかも私にその興奮をぶつけてくる。
「痛い痛い痛い〜〜〜〜!!」
と、叫びながらインターフォン口で返事をしている時があるので、犬の声と私の声に紛れて先方の声が聞き取りにくいことがある。今日は林家パー子さんのような声質のご婦人声で「近所の」という単語だけが聞こえてきたので、ご近所さんなのだと思って急いで「はい、今行きます〜」と玄関まで行ったのだった。
そうしたら、「こんにちは〜」
「私は近くの牛乳店の@@と申します〜」
と名乗る、甲高い声の知らないご婦人が立っていたのだった。
うちの近くに牛乳屋さんはない。
一体どこまでを近所と言うのかは知らないが、私にとってはご近所さんでも何でもない、牛乳の勧誘に来た知らないご婦人だった。
ずっと前には「隣りの鈴木です」と言って、本当に隣りの鈴木さんだと思ってドアを開けたらいきなり足を入れられたことがあった。その時は、自称北海道沖で転覆した船から生還した「サブちゃん」というパンチパーマの顔全体が深い皺の怖〜いおっちゃんに「新聞、取ってもらえないかな」とすごまれて判子を押した。
以来「近所の」と言われてドアを開けたら知らん人やったという時、私はめちゃ騙されたような気がして急に腹が立ってくるのだ。
セールスの電話でも微妙なんがある。
「いつもお世話になっております。A社の・・・」
私はA社の通販をよく利用するので、なにかあったのかしら?と思って「はい。なんでしょうか」と答えるのだが、そこからの話がどうも遠回しで、結局A社とは関係がほぼなくそこ経由でこの度生命保険のご案内を・・・という風に続いていて結局保険の勧誘だったというようなことがある。
よくわからないが、こういうやり方は嫌いなのだ。
甲高い声のパー子婦人は、あまりに甲高い声過ぎて結局何を言っているのかも聞き取りにくかった。
サンプルを飲んで感想を言うだけでいいと言っていたが、もうその勧誘は三度目。感想を言うだけでいいだなんて真っ赤な嘘なのだ。
うちは結構です。取れませんのでとお断りをしてドアを締めた。
近所と名乗る牛乳屋さんはこれで三軒目になる。
ほんまかいな!
みんなテキトーなことばかり言いよって!
うちは近所にスーパーもないような何もないところなのに、何故か牛乳屋さんだけは三軒もあるようなのである。


投稿日:2010年11月03日

2010年11月03日

去年の春頃だったか、カレン・ホイプティングという人の絵に一目惚れして版画を買った。
karen.jpg
タイトルは「怖くなんかない」というもので、この絵のワンちゃんがダンボに似ているのと絵のタイトルと恐がりのダンボがダブったのが理由だった。
この人の絵は犬や猫、動物が出て来るものが多くそのどれも可愛い。
この主人公の動物達がダンボだったら、どれだけ嬉しいだろうなぁ・・・。私も絵が描けたらいいのになぁ・・・。カレンさんの絵が可愛いほど、ダンボの絵が欲しくなったのだ。
絵心はないが、ダンボの絵が欲しい一心で描いた絵がある。タイトルは「ダンボとの暮らし」確か去年3ヶ月ぐらい掛かってアクリル絵の具でちょびちょび描いた絵で、ベッドの部屋に飾ってあって、この一枚ですっかり頑張る気持ちは消えてしまったが、下手なりにも幸せが詰まっている絵なので気に入っている。
dambotonokurashi.jpg
出て来るのはダンボはもちろん、家の中にある家具やダンボのハウスやカーテンなど、それから外の景色は本当は草野球場なのだが、幸せの青い鳥に飛んで居てもらいたかったのでちょっと窓の外の景色は広い原っぱみたいになった。
以前、幼なじみ親ちゃんが「日本人は絵を飾るという習慣がないからそれが残念だなぁ」と言っていたことがあった。
狭いながらも、私の家には絵が何枚か飾ってある。ファンの方からいただいたものや、ファンの方に描いてもらった似顔絵だ。
絵のある暮らしはやっぱりいいと思う。
ダンボがいつも笑って私を見てくれる幸せの絵が私の家にはあるのだ。


投稿日:2010年11月02日

2010年11月02日

家に2本あるオリーブのうちの1本が今年実をつけたのだ。
オリーブは1本では実をつけないので、近くにもう1本植えないといけないそうなのだが、去年2本目に買った苗が自分で実を成らすタイプのものだったようで、今年の春に花を咲かせたなぁと思ったらいくつかの実をつけていたのだった。
買って2年目のまだ弱々しい苗なのに、もう実をつけたけれど・・・。
これは本当に実なのかしら?
実をつけるのは3年ぐらい経ってからだと聞いたような気がしていたので、思わぬ結実にちょっと信じられないでいたのだった。
実がこんなに早い時期に成るとは思っていなかったので、水をやりながら緑色の実を眺めて考える。
「これはいつ収穫すればいいのかしら」
お店で食べるオリーブは緑と黒がある。この緑色のは放っておいたら黒色になるのかしらん。既に5月頃には実をつけていたので、それから数ヶ月間「緑」の実に心の中で「黒に変わるんだよね?」と思いながら水をやっていたのだった。
夏に水をやり忘れて数日経つと、実はシワシワになっていた。ひからびた銀杏のようになって縮んでいて、しまったと思って水をやるとまた復活をしてそして9月になった。
こんなに数ヶ月も緑のまま色が変わらないって・・・やっぱり変だわね。
収穫のタイミングを間違えてしまったと思っていたのだったが・・・・。
10月の末になってあの緑の実のいくつかが黒く色づいて来た。
調べてみたら、オリーブは緑で収穫しても黒で収穫してもどちらもよいのだそうだ。ピーマンも緑のままず〜っと育て続けたら、パプリカとは違う赤いピーマンに色が変わるのだそうで、それと同じなのかもしれない。
実際に食用にするには、オリーブは手が掛かって大変らしい。
でも実が成るのは何にしても嬉しい。
そろそろ収穫しようかな。
素晴らしい。緑のオリーブは夏に一度はシワシワの銀杏になりかけたが起死回生、最後は私の手に関係なく自然によって熟したオリーブに育ってくれた。


投稿日:2010年11月01日

2010年11月01日

有名なヘアスタイリストの人が、街で見かけた女性のヘアをいい感じにしてあげるというコーナーをたまにテレビで見ることがある。
だが髪型は、勝手にいじられることに抵抗を感じる人が多いパーツ、と言えるんじゃないだろうか。髪が薄いのを気にしている人の頭を冗談で触ったら、激怒されたという話を聞いたりもする。私だって昔は前髪の長さがほんの少しでも短く感じたら「誰にも会いたくない」気分に覆われたものだった。
「私の髪型を好きにしてちょうだい」と普段からオープンな人なんて、あまり居ないと私は思う。むしろ顔の輪郭や、自分のコンプレックスに思っている部分と髪型のこだわりは密接な関係があって、人にはいちいち説明はしないが微妙になんとか「これだったらOK」という合格ラインを導き出して、それで折り合いをつけて外出をしているのだと思うのだ。
髪型の決定はそういうこともあって、確かに自分だけで選んでいたらコンプレックスに少々気を取られ過ぎな部分もあるかもしれない。
もっと顔を出した方が、素敵に見える場合だってあるかとは思う。
でも物事には順序ってものがあるのだ。
だから、いきなり有名なヘアメイクの人だからって私は街で呼び止められて、自分の髪型を預けるということは出来ないし、だいいち声を掛けて来ること自体デリカシーがないと思うのだった。
変身前と変身後の姿がテレビに映し出される。
「え〜〜っ、前の方が似合っていたのに・・・」
と、気の毒に思いながら画面を見ることもある。
だが番組は、変身後の方が素晴らしいことを絶対的な前提としている。
素人の女性は慣れないテレビ画面の中、「ほんっと、変わりましたね〜」などと笑顔で頷いている。だが、それは<素敵になって>自然に心から出た感激の言葉ではない。「変わった」という、「気に入った」「気に入らない」のどちらでもない言葉で、精一杯本心を濁した気遣いのように思えるのだった。
<ほんとは気に入っていないわ、この人>
しかし、なんだか知らないが「今回の奥様の変身、大成功!」でコーナーは終わる。
素人に気を遣わせた挙げ句強引に終わるコーナー。
それまでだって、変身前と勝手に定義づけられている髪型を「生活に疲れたような奥様の髪型」などといったナレーションを入れたりして、もうそれだけで十分失礼だと思う。そもそも変身後の方が「絶対に」良くなっているというあの強制的なムードは何なのだ。「こんなの、やだ!」「うーーん、思ったより素敵にならなかったです」などの意見をもっと言わせろ。
ヘアメイクさんが街を人を取っ捕まえるコーナーは、言論の自由を奪われている恐ろしいコーナーであるにもかかわらず、スタジオの口の立つ出演者もだ〜れもそうは言わない。
何故だ。
理由はどこにある。
世の中、黒いものがはびこっている。
こういうコーナーをテレビで見る度、私はカリスマヘアメイクの人がどうしてこんなに「正しい人」として、いつも腫れ物を触るように扱われるのかが不思議でならないのである。