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投稿日:2007年03月21日

2007年03月21日

今日はミュージカルを観に行った。
少し前に友人と待ち合わせをして、お茶を飲んでいた時のこと。
「みきちゃんだったら、どうしたかなと思うことがあって・・・」
「何、何、何ですかぁ〜」
「パスモって知ってる?」
東京ではパスモカードといって、それで電車や地下鉄、バスも乗れるカードがつい先日発売をされて、都内の至るところで盛んに宣伝をしているのだ。
彼女はそれを買ったが、たまたままだパスモが使えないタイプのバスに乗ったのだった。だが、日本語がわからない外国人扱いをされた挙げ句、何の説明もないどころかひどく横柄な態度で”そんなものは使えない”の一点張りで、質問にも答えてもらえなかったらしい。
「あれだけ宣伝しているから買ったのに・・・」
そりゃそうだ。あれだけ宣伝しているんだから、使えない車両に乗る運転手さんは、やはり面倒でも「いやぁ、この車両はちょっとまだご利用いただけないんですよ。すみませんね〜」位は答えたっていいんじゃないのか。そういう所で”そんなことは、わしゃ知らん!”と不貞腐れるのは、いかにも自分の父しげおっちっぽい。
「私なら、車両の中にある運転手さんのネームプレートをまず読みますね!」「そして、本人に宣言した後バス会社に電話しますね!」
あははと二人で笑っていたが・・・。
その後に、今日は自分に不幸が襲いかかってきたのであった。
それは劇場の公演の途中休憩でことだった。今のうちにトイレに行こうと矢印に沿って進むと・・・。ガッカリ。トイレは階段を下りた所。近くにエスカレーターなし。どうしよう・・・・と一瞬立ち止まったが、今日は「ここまで来たんだから行こう」と思い、階段を下りて行ったのだった。
街やデパート、自分は障害者用のトイレを使う割合が高い。場所によっては汚れていて困ったなと思うこともあるが、それでも私にはこちらの方が助かることが多いのだ。
今日もそちらがあるのを知って入ろうとしたら・・・。
「今、階段を一人で下りて来られましたよね。だったら普通のトイレを使って下さい」
会場整理の女性に指示された。
足を指さされて、ちょっとカチンときた。
もう一度指をさされた。
「今一人で下りて来られましたよね。下りられるのを見ていました。階段を下りられたのなら普通のトイレを使って下さい。」
トイレは空いていた。
これは彼女の判断なのか劇場の判断なのか。
ようわからん。階段を一人で下りられたら障害者用のトイレを使っちゃいけないだなんて。初めて言われた。
杖や足に指、さすな。
<どうします?>
<今は言う時でしょう>
<えぇ!?マジですか>
<さぁ、頑張って言ってごらん!>
はふ〜〜っ。
<了解、行きましょう!>
無敵モードになる時、私はその直前でいつもためらうのだ。基本は丸腰。ヤフーオークションではどんなに失礼な出品者に出会っても、「大変よい」評価をつけ、ケンカだって一度もしたことがないのだ。
言うのは疲れる。
障害者トイレが設置されている場所であるなら、認識不足というかちょっと勉強不足。障害者トイレについて、利用者をあなたもしくは劇場がこういう基準で判断する行為は間違っていると、今日は「間違っている」という強い言葉をあえて口にした。
茹でダコみたいになって怒りをあらわにしたのは久しぶりだ。
無敵の私は彼女の前で大魔人となり、そうして階段を上がったらおしっこを漏らしそうな顔で、友人の姿を心細くなって探したのであった。
<本当は言いたくなんかなかったもん。ぷん!>
私の中のいじけた子供が飛び跳ねる。
しゃーないやんか。
もう一人の自分が肩を叩く。
言ってスッキリしたことなんて、一度もない。
怒りんぼだが、怒るのは本当はあまり好きじゃないのである。


投稿日:2007年03月20日

2007年03月20日

朝起きてパソコンを開くと、母の日&父の日ギフト承りますというメールが届いていた。
え!
寝起きのまだ頭が回っていない時にこういう文章を目にすると、”今日って何月のどれぐらいの時期なのか”と時を見失う。
ギョっとしてカレンダーを見る。
「何月」
3月。
「・・・の、いつ」
20日。
・・・・・・・。
”よかった。”
そこでようやく一人部屋でホっと肩を撫でおろす。驚かさないでよ。まだ春休みに入ったばかりだというのに。
こういう類のメールは、ビックリ箱メールと呼ぼう。季節フライング気味の単語が含まれているとNG。そうやって振り分ける機能が出たら早速私は使うのだ。
先日はもう鯉のぼりが売っていた。そこでも足が止まったが、「鯉のぼりかぁ」と、目を細めるのではない。やはり、「今、一体何月何日ごろだったっけ」と一瞬考えるのである。ちょっとうんざり。自分もせっかちだが、私のせっかちは今日の中でのせっかちであって、季節は常に今をもっと楽しみたい。
今年もこうして鯉のぼりの頃には、お中元フェアのお知らせにギョっとして、セミがミンミン鳴いている中で「秋の新作」のブーツをショーウィンドーで見て、9月になればカボチャのお化けに囲まれそのまま「おせちの予約承り中」で終わるのだ。
こんなもんでしょう、でいいのか。
気にしない、だけで本当にいいのか。
微妙に時間軸を狂わされて、そのちょっとずつが長年溜まっていき、それでそのうちみんな病気になったりはしないのか。
バス通りのクリスマスイルミネーションの家は、まだチカチカとサンタさんが輝いている。
「もうウチは、関係ないし」
一年を捨てた感じが、妙に凛として見えて来たのであった。


投稿日:2007年03月19日

2007年03月19日

もう一生直らないとあきらめているのが、落とし物と失くし物癖だ。いつからこうなったのか思い出せないが、京都時代からの友人に去年再会をした時に、その頃からしょっちゅう落とし物と失くし物をしていたと聞いたので、自覚がない時期も含めたら、恐ろしく長い期間、物を落とし続けているのであろう。
イヤリングにピアスは多数。切符も多数。先日は買ったばかりの服を落とした。お金も落とすし、着て行った上着も失くす。サングラス等の小物は、買った時点で「いつまで一緒にいられるのかなぁ」ということをまず案じるし、普通に肩に掛けていた鞄を歩きながら落としたりもする。その時は見知らぬ人に鞄を持って追い掛けて来てもらい、そこで初めて「あら、鞄を持っていない」と気がついたのだった。
もう、慣れている。
手で持つ物、身につけるもの、身近に携帯しているものが頻繁に失くなり、そしてその瞬間に自分は全く気がついていないということだ。
泣く泣く迷子になったのか、それとも逃げるなら今がチャンスだと、狙って逃げて行ったのか。
私、何か臭いのでしょうか。
ゴミだけは、いつも鞄の中にいっぱい入っている。
元、自分の物だった物達を集めて同窓会を開いたら、どんな物達に会えるのか。きっと楽しいだろう。そして「これって、全部で一体いくらになるんだろう」と、自分が無駄遣いをした気分に襲われて、軽く落ち込んだりもしそうなのだ。
お〜い、みんなどうしていますか〜。
物にもいろんな性格があるのだ。
<お前、帰るのか、アイツんとこに>
<なんだか、かわいそうに思えてきちゃって>
<やめとけ、やめとけ>
<う〜ん、もう一回だけやり直してみるわ>
<後悔したって知らないぞ〜>
本日、杉並区役所から「手帳を落とされましたよね」と電話を頂いた。
今度こそ、もう失くさない。
大事にするから。
私は本気で誓う。
他人と暮らすのは難しいと言うが、物と一緒に暮らすのも難しいことなのかもしれない。
私と同じように、落とし物や失くし物が多いという人は、物を失くすという感覚ではなく、物に捨てられたと考えを改める方がいいのである。


投稿日:2007年03月18日

2007年03月18日

今日は「東京下町食い倒れツアー」と題して、会社のTちゃんとお仕事でお世話になった浅草ッ子のSさんKさん、それから代々浅草という浅草ど真ん中で育ち、生粋の浅草人のHさんの5人で、Hさんに案内人となってもらって地元浅草を紹介してもらった。
浅草には度々私は探検に来ている。浅草寺にはなやしき、その場で焼いて売っているせんべいを買って食べ歩いたり、裏道や小道にバス巡りもした。隅田川から船に乗って川を下ったりもしたこともあったりで、一応浅草の簡単な地理は頭には入っているが、それでも浅草は知らない。
京都の場合、京都に行ったという人の話を聞くと、接点はたいてい「お寺」か「嵐山」せいぜい「天一のラーメン」となり、大阪となると必ず道頓堀が話題となるが、私は京都なら上賀茂近辺や北山通りや特に何もない紫明通りに連れていきたい。そして大阪だったら、恐怖の阪神高速環状線に案内して、そのままブーンと南港まで行って「これが大阪です!」高速道路を背に海を見せたい。まぁ、ただそれらは自分の好きな所でしかないと言われてしまえばそれでおしまいなのだが。
今日の浅草巡りは美味しい物にもたくさん出会えたが、昔はこんな景色だったんだよということを聞かせてもらいながら歩く歴史探訪の旅となった。
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ガイドブックにも載っていた甘味屋さん、浅草寺の中の小さな池に架かる橋、何気なく通り過ぎてしまう塀にさえも何かしらのエピソードがある。Hさんは浅草寺幼稚園に通っていたそうで、ここが日常の遊び場だったのだそうだ。「あそこが入り口でね」と、幼稚園には見えないアルミの扉を指さす。
途中のべっこう店ではみやげ物屋のおかみさんが、「あら、この間お店に行ったのに」とHさんに声を掛ける。Hさんはこの辺りのやんちゃ坊主だったんだろう。長身の紳士なのに”ヒデオちゃん!”と呼ばれているのがおかしかった。
IMGP7206.JPG
子供の頃には、瓦割りの見世物などが街頭であったようで、この辺りの子供達はお客さんに混じって見物をするだけじゃなく、「こんな子供でも瓦が割れます」という演者としておこづかいをもらって見世物の”瓦を割る子供”として出たりもしたのだそうだ。私の日常や育った町にはない独特の世界の中で、それでもやっぱり子供達はその中で目一杯楽しいことを見つけて、日々は冒険だった。
映画が栄えていた頃の映画館通りのこと、大衆演劇場のポスターにストリップ劇場の看板。吉原が焼け野原になった時の様子やおじいさんから伝え聞いたという昔話。
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どこかに出掛けた時に、美しい景色に感動をして写真に収めたら、自分の感じ方といつも違ったものになっている。最高のカメラ日和だったのに、結局どの写真も家に帰って見たら、目で見て感じたものをうまく撮れたのは一枚もなかった。Hさんの頭の中に広がる映像を私達の頭の中にも映して、それらの風景を感じる。
とても写真には撮れない浅草だ。
整備され観光客が歩く一本一本の道に過去の風景がある。浅草にあるように、それは今住んでいる家の辺りにも。
私の実家がある高槻の家のあの辺は、住宅地になる前は田んぼか沼だったと聞いている。それ以上のことを知っている人が居たら、話を聞かせてもらいたいな。
浅草を巡りながら、私は同時に何のつながりもない自分の育った風景を重ねていたのだった。


投稿日:2007年03月17日

2007年03月17日

今日は東京タワーが一日だけ、緑色に点灯しているそうだ。アイルランドとの国交50年を記念して、友好の証としての点灯なのだそうだ。
私は50年も仲良くしている人はいない。まだそこまで年齢が達していないので、知り合って50年になる人がまず居ない。50年のお付き合いっていいなと思った。
同じ港区で、場所は離れてはいるが私がお世話になっている事務所は、その港区の六本木という所にある。駅は六本木もしくは乃木坂という駅が近い。私は乃木坂で下りてそこから歩いて行くのだが、自分の描く「港区」「六本木」という印象とはちょっと違って、会社付近は割と静かな場所なのだ。
今の事務所に移籍する時は、前の事務所がもうアーティストを抱えられない状況にあった。路頭に迷うのをせっかく「ウチに来ませんか」とY氏が声を掛けてくれたというのに、私はなかなか切り替えられず、当時は自分一人がポンと移動をするという決断が出来なかった。
「せっかくお声を掛けていただいたんですが、気持ちが決まりません。すみませんでした」と挨拶に行って、泣きながら帰って来たのが12年程前のことだ。
なんでそこで泣くのだ。
よくわからない。
全く、公私混同の失礼なことをしたと今は思っている。
それから前の事務所の人の後押しで、結局お世話になることになったが、今度はその数年後に病院生活を送ることになる。
よく見捨てずに置いてもらえたのだ。
もう10年以上も、お世話になっている。
50年の国交と同じ位、いやそれ以上に12年は深く濃い時間だった。
東京タワーのライトが緑に光る。
港区は、かつてテレビ局にクイズの応募ハガキに宛名を書いた、それぐらいの遠い街の名だった。
アイルランドとはどんな思い出があるの。
私もこの会社に来てからたくさん思い出がある。
何かが続いて行くためには、片方だけが一歩前に出てもだめで、お互いがしっかり足を踏み出さないと年月は重ねてはいけないのですね。
続かないものがたくさんあるから、私は数少ない失いたくないものを繰り返し握りしめ直してきた。
国も人も、全て相手があることはみんなそう。
一歩踏み出して。
どこまで行こう。
もちろん、行けるところまで。
大切な人達へ。
知恵を出し合って行けたらいいな。
これからも、こんな私を
どうぞよろしくお願いします。


投稿日:2007年03月16日

2007年03月16日

今日はかしわ哲さんのラジオ番組にゲストに出させていただいた。
かしわさんと初めてお目にかかったのは、去年の12月、今お世話になっているウエブラジオ、kizznaFMの設立パーティの時。長身で髪は半分モヒカン、服装も個性的でたくさん人が集まる中で人目を一番引いた。その日はプロデューサーのY氏かディレクターのK氏に紹介をしてもらったんじゃないかと思う。
その時に少しお話をさせてもらったが、かしわさんはものすごく目力が強くて、ふとこちらが目をそらしてしまいそうなぐらいの強力なオーラが出ていた。なるべく私も、普段人の目を見て話をするようにと気をつけているが、その目ビームはとにかく強力だったのだ。
「なにか楽しいことが一緒に出来るといいですね」
最後は年上の男性の持つ独特の包容力が後味に残った。
かしわさんは、元々のスタートはシンガーソングライターで、その後NHKのうたのお兄さん、そして現在は執筆活動で童話作家の顔も持つ。
今、私が外に出て何らかの仕事をする時には、必ず自分のした病気のことが一緒について来る。私自身もそれはそれで自然なことで、特に自分からピックアップすることもないが、黙っていたいということもないので、何気ないところで「体」の話になることは多いのだが、意外なのは会話をしているうちに、実は自分も・・・とご病気や怪我で仕事を一時中断されたという話を伺うことがとても多いということだ。
公にしていない人も居るので、私は自分の中でその話は止めているが、とにかく知らないだけで事情を抱えている人がこんなに多いとは思わず、そうしたらかしわさんも今日は収録の中でご自身がご病気をされた話をポロっとされたのだった。
”世界をバリアフリーに”が、かしわさんの現在の活動のテーマだ。収録には乗らない場所で、かしわさんは自分の想いを情熱的に話をされた。
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今日は一緒に一曲、演奏をした。
本来私は人見知りがちだ。人とどんどん出会って輪を広げたいという好奇心はほぼなく、縁あって知り合った人との関係を深めることの方が好きなので、何か機会をいただかなければ自ら率先して、出会いを作りに行くこともしない。
本当に人見知りな方なのだ。
だが短い時間、今日はかしわ哲ワールドに引き込まれ、私は気を許してたくさん話をしていた。
「チョコレート」という響きや「残業」とか「約束」といったたくさんの言葉がある中で、「バリアフリー」という言葉に対しては単語自体が持つ緊張感があると感じてきたが、今日の収録ではなんでもない楽しい会話の中に、自分の緊張がほどけて、思わず笑ったり自分のことを夢中になって話している個所がたくさんあった。
「また、是非何かしましょう」
やはりスタジオを出る時に、今日も年上の男性の持つ独特の包容力が後味として残った。
言葉を用いずに、バリアフリーをかしわさんご自身に体験させてもらったゲスト時間だった。


投稿日:2007年03月15日

2007年03月15日

近くのバス通りは細い街道にもかかわらず、交通量が結構多いのだ。おまけに道が細いので、信号待ちをしている車があると、歩く場所がなくなってどこを歩いたら轢かれずに済むのかということを、この道を歩く時にはよく考えている。
轢かれそうになるから、こっちに寄ろう。
轢かれないうちに、こっちに渡ろう。
轢かれかけたので、こっちを歩こう。
約30メートルの距離の間、私はフツーの顔でテクテクと歩いているが、頭の中をパカっと開けると、いつもそういう会話がなされているのだった。
その時々で判断をする、私の轢かれない為の対策。
今日は「轢かれないうちに、こっち側に渡ろう」のパターンで、フツーの顔をして道を渡っていた。
ら、前方で視線を感じた。
「こんにちは」
「あ!」
あ。イケメンさん。
しまった、ここは派出所の前ではないか。
一瞬、こういう渡り方は交通法規的にはどうだったんだろうと、昔運転免許の学校で習った授業の中のことを思い出そうとしていた。その間数秒、考え中につき私の足は止まり、道路の真ん中で立ち止まった形となってしまったのだった。
だがここは渡っていいのか悪いのか、結局自分でもわからない。
突っ立っていたら、「気をつけて」とイケメンさんが笑って言った。
”信号、青”
”なんだかよくわからないが、取り合えず「よし」”
イケメンさんが合図をくれたので、動き出せたのだ。
イケメンさん、ありがとう。私はすっかり貴方を信頼しました。緑の紙を本当に取りに来てくれたこと、そして今日は信号のかわりもして下さいましたね。
それとこれとは違うのに、ウチにはもう「泥棒が入らない」という安心まで、なんだか得ている。
先日、防犯の心得を教えてもらったにもかかわらず、”もう鍵は開けたまま、網戸で寝ても平気だわ”と、一気にゴールデンレトリバー並みの無防備状態に入った私なのであった。


投稿日:2007年03月14日

2007年03月14日

阿佐ヶ谷住宅というのがある。今の家に引っ越してここをバスで初めて通った時に、目を見張って景色を眺めたところだ。駅に向かう途中の道をバスが右に曲がると、ふと都内とは思えないゆったりとした敷地の中に、洋風の一見平屋に見えるその住宅群は突如現れる。
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同じ形をした棟続きの家が並び、それぞれ一軒ずつには庭がある。植えられて長い時間が建つんだろうなぁと思われる木々が、そこここで手を伸ばし、一日中太陽の光が降り注ぐだけの空間がそこにある家にも木々にも与えられている。
阿佐ヶ谷住宅南
阿佐ヶ谷住宅東
バス停は停留所を3つぐらい置いていて、バスはこの中の緩やかなカーブの道を行く。急いでいる時にでも、ここを通る時間は、よく私は遠くにドライブにやって来たような感覚になるのだった。
これだけの敷地をこんなに贅沢に使うのはもったいないと思う気持ちと、このまま置いておいて欲しいなぁという気持ちが入り混じり、そして更に「ここだったら、住んでみたいなぁ」という憧れを抱きながら、景色を眺める。
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ここは昭和33年に建てられた公団住宅で、取り壊しが決っている。もう人が住んでいない棟もある。古く汚れている個所もたくさんある。それに決してお金持ちの家並じゃない。
あれはあじさいの木だな。
これは・・・桜。
まるで避暑地の一角のような。
IMGP7215.JPG
私は花が好きだが、手入れが行き届いた年中花満開の綺麗な庭よりも、雑草が少し伸びていたり花つきが悪い鉢も一緒にそこに置いてあるような庭の方が好きだ。その方が花木達が自由にやれている気がするからなんだろう。ここの建物の古さや傷みは、それと同じ”足りなさ”がある。だから私は和むのだ。
昭和の子供達が、見てもいないのに自分の思い出のように浮かび上がる。
ランドセルを置いて遊びに行っても。
子供達はここに帰って来る。
どんなやんちゃな男の子も。
お母さんに叱られるからじゃない。
お母さんのところに自然に帰ろうと思うだけ。
阿佐ヶ谷住宅を通る時。
何故かしら私は
全てを忘れて優しい気持ちの自分に会える。


投稿日:2007年03月13日

2007年03月13日

体調不良の日。
季節の変わり目だからなんだろう。
息が切れ、グッタリする。
こんな日は寝るに限る。
今日は外出の予定がなかった。
よかった。
う〜〜む。
本当に、渋谷マウンテンに生気を奪われてしまったのだ。


投稿日:2007年03月12日

2007年03月12日

ラジオの収録に渋谷に行った。
渋谷駅から246を渡るのに、あの歩道橋以外に方法はないんだろうか。ないと聞いたことがあったが、あれを渡るより平坦な道を、少し遠回りでもいいから行けた方がいい。
渋谷マウンテン。たいしたことのない歩道橋に見えるのに、いつもあそこで私は力尽きるのだ。やっとこさ上に上がれたと思ったら橋の上は小さく揺れ、そして緩い坂になっている。緩い下りになる辺りで顔はブルドッグになり、下りの階段の時はヨボヨボになっている。上って下りるまでに自分の体が30年老いるという、人の生気を吸い取る恐怖の歩道橋なのだ。
だが、結果。
本当に橋以外の方法は見つけられなかった。しかも橋近くはこれまた緩やかな上り坂になっているので、歩き回って「ない」とわかった時点で体力を消耗してしまっていたのだった。
はひーーー。
お、おっさんよ。そこにタンを吐くのはやめておくれ。今日はよける元気がもう残っていない。
今日は歩道橋を渡るだけのために二回も喫茶店でうなだれてしまった。まず渡る前、そして渡った直後。
タクシーで行った方が安かった。
電動羽根が欲しい。
私は買う。
歩道橋をひとっ飛び。
みんなでパタパタ飛んで、246を渡ろう。