月別アーカイブ : 2010年3月

投稿日:2010年03月11日

2010年03月11日

かたつむりを見つけた。
近所の家の門のところに。
先週もここに居たっけ。
先週の位置からはほんの少し移動しているから、多分生きているんだろう。
でも、それにしても動かなさすぎてはいないかい?
”6月の梅雨頃にあじさいの近くに居る”というイメージがあまりに強く、だが寿命は1年ぐらいあるそうなので、かたつむりを見かけることは無いことではないらしい。
一匹だけ、門の壁のところにひっついているかたつむり。
キミの探しているあじさいはね、ようやく新芽を出したばかりだから、多分まだ上手く見つけられないと思うよ。
今年も啓蟄を過ぎて、虫達が起きだす頃となった。
私が見つけたのは、きっと冬を越えた強運のかたつむりなんだと思う。
どこを探しても、あじさいがなかったらうちにおいで。
青いあじさいが今年も芽を出したから。
あじさいの咲く季節まで、まだもう少し。
ちびっこにつかまえられないようにするんだよ。
決して強くはない生き物が、粘り強くそこで生きている。
冬の向こうには春がある。
また会おうよ。
小さなかたつむりが門にひっついていた。
ただそれだけのこと。
だがそれは素晴らしいことだ。


投稿日:2010年03月10日

2010年03月10日

伊勢丹の吉祥寺店が、今度の日曜日で閉店となる。
伊勢丹吉祥寺店は、私にとって思い入れのあるデパート。それだけに閉店は寂しい。
私の子供時代には、練馬に母方の祖母の家があり、善福寺公園の近くには従兄弟の家があった。なので、一年に一度は母と妹の3人で学校の休みを利用して東京に遊びに来ていたのだった。
東京の景色は子供の目からしても大都会だった。
新幹線で東京駅に着くと「黄色」「オレンジ」「水色」「黄緑」と、いろんな色の電車が行き交っていた。レールの数が多く、ホームもたくさんある。電車に乗れば今度は線路のすぐそばに雑居ビルがずっと連なっていて、それから走っても走って線路沿いに家がひしめくように建っていた。
家の近くでは見かけないようなファッショナブルな大人や、職業不詳的な人も居て、聞こえてくる会話のイントネーションは「賢そう」な感じがした。
東京に遊びに行くと、大抵は祖母の家に数日居て、その後1〜2日ぐらい善福寺の従兄弟の家に泊まるというパターンだったが、従兄弟の家がまた文化の匂いのする家だったので、家の中にあるおもちゃや本など、私にとっては洗練された感じに映ったのだった。
叔母の家では、「おばあちゃん」のことを「おばあちゃま」と呼んでいて、言葉使いとしきたりが我が家とは違っていた。例え妹と私が遊びに来ていても「特別」はなく、従兄弟達には「勉強の時間」が、そして私達にも「宿題をする時間」があったし、ご飯の時もテレビはもちろん見せてはもらえなかった。そんな厳しい叔母だったが、善福寺公園と吉祥寺に遊びに行くのには従兄弟のひろくんをお供にしてよく送り出してくれた。
「伊勢丹にでも行ってらっしゃいよ」
叔母の品のいいしゃべり方と東京の人独特のイントネーションで、いつも私は「伊勢丹」という単語を聞いた。こうして私は、東京の祖母の家に行った時には必ずと言っていい程「伊勢丹」を訪れていたのだった。
あれから時が流れ、周りの店は軒並み変わった。
唯一、「伊勢丹」だけが、私の子供時代と現在の吉祥寺を共有出来る存在となっていたのだった。
吉祥寺店がなくなった跡地にはH&Mが入るのだそうだ。
H&Mかぁ・・・・。
別にH&Mが嫌いなわけではないが、重みが随分違って感じた。
伊勢丹は東京の象徴だった。
目に見える形では、時を越えてつなぐものがなくなる。
東京タワーと同じぐらい、伊勢丹は都会の東京を表す存在だった。


投稿日:2010年03月09日

2010年03月09日

部屋の中がなんだか冷えるなぁと思っていたら、外は雪に変わっていた。
3月になっても三寒四温どころか寒い日の方が多くて、今日はまた冬に戻ったような寒さになったのだ。
この家は玄関のドアに少し透明な部分があるので、雪が積もると夜でもそこだけが明るくなる。
夜になって、少しだけ玄関のドアを開けてみた。
短い時間で思ったより積もっていた。
「ダンボ、雪だよ」
ダンボを呼んで、めずらしい雪を見せる。ダンボは雪をどう認識しているのかわからないが、興奮して雪の中に飛び出て行くことはなく、しばらく無表情に見て、その後関心がなさそうに戻って行った。
部屋に戻るとダンボはヒーターの前でくつろいでいる。
この辺りの動物は、歌にあるような”犬は喜び庭駆け巡り、猫はこたつで丸くなる”ではなく、むしろ逆なのだ。近所の猫は寒くても毎日外を元気に探検しているし、犬は家のあたたかい場所を探して移動をしている。
雪が積もると地面がまぶしい。
明日になれば東京の雪は、きっと溶けてしまうのだろう。
雪がめずらしい所で自分は育ったのだなぁと思う。
足元が白一色になると、雲を下に高い所に居るようなそんな錯覚を時々抱くのである。


投稿日:2010年03月08日

2010年03月08日

電車に乗っている時のこと。
前に座っていた男性が本を読んでいた。
電車の中で本を読む人は、割とカバーをかけていたりするので、何の本を読んでいるのかがわからなかったりするのだが、この男性は向かい側の私にでもタイトルがわかる単行本を読んでいたのだった。
「集中力」というタイトル。
しかし、おかしいのはこの本を読んでいる男性が落ち着きがないことなのだった。
私がこの男性の存在を認知したのが、そもそも”なんだか前に座っているヒト、落ち着かないなぁ”と思って視線をやったことがはじまりだったのだ。落ち着きのない子供みたいに、ジっとしていられない。本を読み始めたかと思うと急に顔を上げてキョロキョロと周りの人を見たりしている。何か気になる人でも居るのかと思ったら、そうでもない。車内は至ってフツ〜なのだ。マナーの悪い人がいるわけでもなく、悪臭があるわけでもない。よくある音楽の漏れもない。
男性は「集中力」をまた読み始める。
でも1ページも読まないうちに、また本を読むのに飽きたような感じで顔を上げているのだった。
<集中力をつけたくて、買ったんだよね>
<だったら、もうちょっと頑張ろうよ>
本を車内で読む時はカバーをかけた方がいいということが、今日は私もわかるような気がしたのであった。


投稿日:2010年03月07日

2010年03月07日

朝のテレビで、クッキングトイの紹介をしていた。
クッキングトイとは「料理が作れるおもちゃ」だ。”わたがし”が作れたり、ハンドルを回すだけで綺麗な形の餃子に仕上がったり、最近のものだと生パスタやそばも作れる。おもちゃとはいえ、出来上がりも本格的な食べ物になるからすごいのだ。
私が子供の頃にも、クッキングトイが流行った。
「ママレンジ」というもので、恐らくこれがクッキングトイのハシリだったのではなかろうか。
コマーシャルで「マ〜マ〜レンジ、ママレンジ〜♪」という歌が流れ、私も買ってもらってよく遊んだっけ。まぁ、お料理と言ってもこのママレンジで出来るのは小さな付属のフライパンで焼けるミニホットケーキぐらいだったのだが、それでも本当にプク〜っと生地が膨らんでホットケーキが焼けると感動したものだった。
ママレンジでホットケーキを焼いた時の独特の甘い匂いは、今でも思い出す。今、料理がそれほど好きでない私でさえ、ママレンジで遊ぶのは楽しかったのだから、男子にはわからない女子ならではのDNAを刺激するおもちゃだったのだと思う。
あれから、クッキングトイも随分進化した。
ソフトクリームメーカーにたいやきメーカー、それからマカロンや生キャラメルを作るクッキングトイもあるのだそうだ。生パスタマシンならおもちゃではないものが売っていても、このマカロンや生キャラメルはクッキングトイを買わなければ、自宅で作れないかもしれない。
”料理”と言いつつも、理科の実験とあまり変わらないことをやっていたと思うが、フラスコだとたいして楽しくなかったものが、フライパンだと楽しかったのは、そのあとで「食べる」という楽しみがあったからなのかもしれない。
基本的には家で遊ぶものなんだろうが、電源が要らないものもあるのでキャンプや海でも使えるかもしれない。おもちゃの域を越えているおもちゃ。バーベキューぐらいの楽しさがあるクッキングトイなのだ。


投稿日:2010年03月06日

2010年03月06日

関西の友人2人と今日は久しぶりに再会をした。
Aちゃんとは何年かに一度のペースで会っていたが、Kちゃんとはもう10数年ぶりになる。
Kちゃんは去年引っ越して、今は東京に住んでいるのだそうだ。
出会った頃は、3人共同じ音楽講師をしていたっけ。
それから全く違う道をお互い歩いて来て。
いろいろあったよね。
人が生まれて死ぬまでに出会う人とは、偶然ではなく必然の縁があるのだそうだ。
たった数時間会ってその人と一緒にご飯を食べるだけで、不思議なぐらい自分をリセット出来ることがある。
確か・・・・
私、最近何か悩みを抱えていたような気がするんだけど・・・・。
何だったかが思い出せない。
ま、いっか。
旧知の友人との再会は、いつもこんな気持ちになれる。
話に花咲く午後だった。


投稿日:2010年03月05日

2010年03月05日

ここ最近はずっと寒い日が続いていたが、今日は春が本格的に来たという程の陽気だ。
今日の東京はゴールデンウィーク頃の気温にまで上がったので、上着を軽くして、私も今年初めて素足で出かけたのだ。
収録帰りに百貨店に寄り道をするいつものコース。店先の品物がカゴバッグだったり薄手のワンピースだったりと、今日の暖かさにピッタリの春物だ。
は〜るが来た、は〜るが来た、どこに来た。
今日は多分まだ春はやって来ていない。
今日は・・・・おそらく・・・・
下見にやって来たのだ。
下見隊が帰って、それで準備をしたらあらためて訪れるという順番だ。
春がもうすぐ日本に旅行にやって来る。
次から次へと旅行者がやって来るのだから、日本はきっと美しい国なのだと思う。
だからせめて
空き缶や、煙草を捨てたりしないでね。
私もどこかにブラっと行きたいなぁ。
渋谷の街に、薄い水色の春の空が遠くまで架かっていた。


投稿日:2010年03月04日

2010年03月04日

ドラッグストアに入ったら「ゴキブリレストラン」という商品が目に入った。
うげっ。
私はパッケージにゴキブリの絵が描いてあるのを見るだけでどんよりするのだ。歯磨き粉を買いに入って無防備で居たところに、いきなりパンチをくらったようなダメージ。そのパッケージには本当にレストラン風のお皿とナイフとフォークが描かれていて、余計に私の頭の中では想像力が増してしまい気持ちが悪くなったのだった。
商品を売るためのアイデアは、時に気分を悪くすることがあるのだ。
先日もご飯を食べながらテレビを見ていたら、鼻炎の薬のコマーシャルで初老の男性の鼻に蛇口がついていて、そこから水がジョボジョボと流れている映像が流れて、一気に食欲が失せた。鼻が蛇口になってそこから水が垂れるというのは、ある人にとってはナイスアイデアかもしれないが、少なくとも私にとっては生理的にダメだった。以来、あのコマーシャルを見つける度にチャンネルを変えて、ダメージを受けないように身を守っているのだ。
無防備に店内を歩けるって素晴らしい。
無防備にテレビを見れるのは素晴らしい。
レジを終えたら超高速で店を出た。
別に・・・・忘れ物をしたわけではない。
次に行くところがあって急いでいたわけでもない。
誰もそうだとはわからなかっただろうが・・・・
ただただ、「ゴキブリレストラン」のイラストが怖かった私なのであった。


投稿日:2010年03月03日

2010年03月03日

誕生日を迎えた。
私が最初に生まれて最初にしたことは、大声で泣いたことだ。
でもその日のことは思い出せない。
人は時々、原点を忘れる。頑張ろうと思ったことや、反省して二度としないぞと誓ったこと、初心を忘れた時は、必ずいびつな自分になっている時だが、そもそも生まれた時のことを覚えていないのだから、それが人間ならではの流れなのかもしれない。
基本的に人は変われない。
と、思う。
だが変わるときは、あっさり変われる。
とも思う。
私は両親の価値観のもとで育った。
だから自分の種の部分に加え、私は両親の価値観で作られた。
多分それが個人としての一応の輪郭になり、自分のパーソナリティはある程度出来上がった。
そこから変わるのは難しい。
自分を変えたいと思っても、そう簡単に変われる人は居ないし、傍目に変わったように見える人が居たとしたらそれはやや違和感を感じる「あの人、変わったね」になるのだと思う。
人は多分自分一人では変われない。
誰かの価値観に感動をして、それを機に変われる可能性があるだけだ。
人生は人と繋がって、そうして紡がれていくものなのだと思う。
誕生日には、自分のも友人のもその日はどんな日差しの日だったんだろうと想いを馳せる。
不思議といつもその季節の晴れた日の景色が浮かんでくる。
時々、これといった大きなダメージがあるわけでもないのに、自分のことがイヤになったり、今やっていることに意味があるんだろうかとブルーに落ち込む日もある。
でも、そんなときはまた一番最初を思い出そう。
暗い暗いトンネルの向こうには、自分の存在を心から待ってくれた人が居たということを。


投稿日:2010年03月02日

2010年03月02日

日の高さがだいぶ変わってきたなぁと思っていたが、それに伴ってやはり日が暮れるのも遅くなった気がする。
一年を通して日の長さはずっと変化し続けているのに、それがよくわかる頃というのがあって、私はその時期が昔から好きなのだ。
日が長くなって行く時と、日が短くなって行く時の両方が好きだ。
なんだかしらないがワクワクする。
いつもは5時に聞こえてくる「ゆうやけこやけ」のチャイム。
ある日から6時に変わる、それに気づいた時も小さく胸躍る。
日の長さに対してこんな風にワクワクするのは、多分お日様がだんだん何かの記録を伸ばしているような錯覚を覚えるからなんだろう。間近でそれを応援しているような気がするからなのだと思う。
別にお日様は何かの記録を出そうとしているわけではないのだが・・・。
「だんだん」そっちに向かって記録を伸ばしている感じがなんともいい。
フレー、フレー、お日様。
すこ〜しずつ日々の日が長くなって行くのを感じる季節だ。