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投稿日:2007年09月12日

2007年09月12日

今日の午後は、一年前にチビ太が亡くなった時にお願いをした移動火葬車に来てもらう予定になっている。
花に囲まれたゴン太。家に居たら、こんなに華やかにお花を飾ってあげられなかった。
何を話そうか。
まだ、いろんなことが整理出来ない。
ごめんねばかり言っている。
チビ太にはこんな風じゃなかった。
「ごめんなさい」と「ありがとう」。
同じ5文字なのに、こんなに気持ちが違うものなんだ。普段の生活の中では時々、”ありがとう”の意味で”ごめんなさい”と言葉が出ることもあるが、今はあきらかに”ありがとう”の真反対にある”ごめんなさい”。
いつまでごめんって言っているんだろう。
ダンボは悲しそうにしていない。何かいつもとちょっと様子が違うなといったぐらいで、ゴン太に近寄ってクンクンと鳴くわけでもなく、ウロウロするのに飽きたら自分の陣地でくつろぎ毛づくろいをして過ごしている。
動物はシンプルだ。
ゴン太もそうだった。あんなに大好きだった先住のチビ太が亡くなると、寂しくて後を追うようにして逝ってしまうのではないかと思ったが、ゴン太はすぐにチビ太を忘れた。一匹の暮らしを特に楽しむでも悲しむでもなく、眠りたくなったら眠り、食べたくなったら食べ、起きて何かしたくなったら行きたい場所に行ってみたりと、目の前にある興味のあることに常に迷うことなく手を伸ばしていた。
3歩歩いたら、全部忘れちゃうゴン太。
私のように感受性が強い人間は、シンプルにあこがれる。毎日を幸せに送りたいのなら、その人の細胞がシンプルであるかどうかは一つの条件としておおいにあると思う。
ゴン太は幸せなフェレットだった。
見ていてそれを感じられた。
ご飯を食べている時に触ったら怒ったのはゴン太だけ。ケージの扉を怒って開けたのもゴン太だけ。
自由が大好き。
だから私もいろいろ考えた。
大事にしていたんだよ。
とっても。
足りないことはたくさんあったし、こんな風に今はごめんねしか言えないでいるけれど。
目の前にある小さな夢が叶うよう考えることが、私のゴン太への愛情だった。ちょこちょこと歩くゴン太の後ろについて、行き止まりになった場所のドアを開けて自由の続きを自分が作れたら嬉しかった。はたから見れば滑稽な関係だったかもしれないが、ゴン太が起きている間のそれは私にとって一緒に過ごせる幸せな時間だった。
多分、ゴン太はもう怒っていないだろう。
それより私をもう忘れてしまっただろう。
忘れていいよ。
ゴン太は。
火葬車の中に消えて行った時、後悔とざんげ、感謝と愛情、悲しさと寂しさ、いろんな感情があふれてしょうがなかった。
いつももう二度とこんな無邪気な性格の仔には会えないと思っていた。
さようならは寂しい。
アホのゴンちゃん。
間抜けなゴンちゃん。
歯が出ていて、目と目が離れていた。
ブサイクだと誰かに笑われると、私も一緒に笑った。
バイバイ。
ごめんね、バイバイ。
私にとって自慢のゴン太だった。
骨を拾い、部屋に戻ると本棚のチビ太の骨つぼの横に置く。
左がチビ太、右がゴン太。
「ありがとう」と「ごめんなさい」が並ぶ。
どれだけ大事に想っても、大切な存在との別れはそのどちらかしかない。
並んだ二つの骨つぼを見て思った。
これが動物との暮らしなのだと。