月別アーカイブ : 2007年9月

投稿日:2007年09月20日

2007年09月20日

高円寺でAちゃんと夕飯を食べた。
「Tがまだ閉っているんで、店を「くしろ」に変更しましょう」
待ち合わせに向かう途中、Aちゃんが電話でそう言ってくれたが、私はその「くしろ」に行ったことがない。
「くしろってどこにあるの?」
店の場所がわからないのと、私がちょっと遅れたのとで結局Aちゃんとは駅で待ち合せをして、そのくしろには一緒に行ってもらうことにしたのだった。
道中、「くしろ」がどんな店なのかを想像する。Aちゃんは串揚げの店だと言っていたが、シャケが何故か浮かぶ。店内には木彫りの熊がシャケを抱えている置物が置いてあるイメージがついていたのだ。
高円寺駅でAちゃんと会って、新宿方向に向かって割とすぐ。
「あ、ここです。くしろう」
店の前に立って文字を見ると、「串郎」だった。
くしろう。
私は何の疑いもなく「釧路」だと思っていた。そこは串揚げを出す北海道料理の店だと思っていたのであった。
店内に木彫りの熊の置物はなかった。
かわりにスズムシが鳴いていた。
今日は「高円寺はしごツアー」。
3軒、お店に連れて行ってもらった。
何を話したかなぁ。
一人の夕飯はいつも味気ない。
たまには音楽を脱いで。
夕飯って楽しいなと思えた夜だった。


投稿日:2007年09月19日

2007年09月19日

最近、レコーディングデータはメールでやり取りをしている。
つもりであったが、
それは私の場合「やり取り」ではなく、受け取りは出来るが、送るとなるとまたわからないことがいろいろと出て来るのであった。
このデータはどうやって送るのか。
昨夜は説明書を読んだがやっぱりわからない。説明書は分厚くてなんだかいろいろ書いてはあるのだが、専門用語がなにしろ多い。日本語の説明書でありながら、全く訳せない文章がいっぱいあるのだ。
過去一番役に立ったのは押し花を作った時。そんな付き合いなので結局送り方がわからず、こんな便利な時代に「えっと、今からそちらに持って行きます」と小泉さんに電話をしていたのだった。
チョイノリ、バイク便出動。
レコーディングはデリバリーの時代になった。
いや・・・デリバリーではない、”お家までお届け”でなく結局小泉さんも出動させ、中間地点まで車で来てもらうという、なんとも申し訳ないことをしてしまったのであった。
世田谷通りの普通の道路で待ち合せをし、CDーRを渡し、バイクに乗っている姿の記念写真を撮ってもらい、それではよろしくお願いしますと言って別れ・・・その間約5分。
最近のレコーディングは変わった。
いや、ほんとうは迷惑をかけただけなのだが・・・・
今日のは映画やドラマの中で見る、怪しい取引きのブツ受け渡しの場面と同じだった。


投稿日:2007年09月18日

2007年09月18日

毎日のように、レコーディングのデータや打ち合わせで小泉さんとのメールのやり取りは続いている。
今は岡崎のぞみさんから頂いたリーディングをコラージュする作業やオケの細かい詰めの段階で、行程が進んだりするとそれを送ってもらっているのだが、小泉さんのレコーディングの進め方はとても懐が広くて、データだけのやり取りでもすごくわかりやすく、自分が逆の立場のなった時に出来るようになれたらいいなぁと、実際に作業をしている中でも学ぶところが沢山ある。
しかし、こうしてメールのやり取りを追って行くと、小泉さんと自分との生活リズムが全く違うこともよくわかる。
小泉さんからのメールは朝8時台に送られていたりして、以前に「生活パターンは朝型かなぁ」と伺ってはいたが、本当に小学生が一時限目の授業が始まる前から既に仕事が始まっているんだわ・・・と思う。方や私はと言えば、病院生活で6時に起床、9時に就寝をしていたはずだったのが、最近は昼前起床、明け方就寝になった。私から送るメールに「おはようございます」はない、午前1時台や2時台に「こんばんは!」である。
メールでデータのやり取りをするということは、最近のレコーディングではよく使われるようになった。一昔前はレコーディングと言えば、昼の12時か1時にスタジオに入って、2時ぐらいから音出しが始まって、8時ぐらいに出前のご飯を頼んで、終わるのが深夜から遅い時は明け方、もっと長い時には次の日の昼前までというのが、割とめずらしくはないパターンだった。
朝8時ぐらいになるとソファーで「死んでいる」人が数人居たり、60何時間寝ていないというディレクターさんががい骨みたいになっていたが、そんなおかしな状況も当時はめちゃくちゃめずらしくはないことだったので、それこそがめちゃくちゃだった。
朝起きてパソコンを開けると、「おはよう!」とレコーディングデータが届く。
夜型人間は朝型人間に対して、コウベを垂れる。多分、全般的に夜型人間は朝からちゃんと活動をしている人には、無条件に「すごい」「すみません」「素晴らしい」という気持ちで見上げているものなのだ。
小泉さんもかつてソファーで「死んでいた」ことがあったであろう。
小鳥のような生活が、想像出来ない私なのだ。


投稿日:2007年09月17日

2007年09月17日

今日は来月の西川峰子さんのライブ用譜面のコピーと発送があったので、会社に連れて行ってもらった。
会社は乃木坂、六本木駅から徒歩5分ぐらいのところにある3階建ての洋風の一軒家。会社に着いた時は丁度西日が射す頃だった。
「あれ、開かない」
Y氏に鍵を開けてもらっているのを待っていたが、なんだか苦戦している様子。
ガチャガチャ。
こんな時、鍵を開けているのが私であれば、その場に一緒に居る人が「貸してみて!」と言って選手交代をすると開くパターンなのだが、この場合は私が代わっても開かないのだろう。
なので、後ろでただ眺めていたのであった。
ガチャガチャ。
「うーーん、開かないな」
こんな時、困っているのが私であれば、その場に一緒に居る人が「見せてみて!」と鍵を受け取ると、「この鍵、違う鍵なんじゃないの?」と言って、自分の鞄を探すとあらほんとだわ、鍵を間違えてたわというパターンになるのだが、この場合はそのパターンではないのだろう。
なので、後ろでただ眺めていたのであった。
「うーーん、なんでだろう」
Y氏は私に訊いたのではない。
独り言を言っている。
うーーん、なんでなのか。
上の鍵は開くが、下の鍵が開かないらしい。前にも一度、会社のTちゃんが同じ目に遭ってその時は、あきらめて家に帰ったのだそうだ。
えーー。それは困る。
中に入れて下さい。
ちょっと野人の血が騒ぐ。
どこか開いている窓ってないのかしらん。
「鍵、開かないんだけど何かコツってあるの?」
Y氏が困って訊ねたのはTちゃんだった。電話で何やら話をしていて、そこで掴んだ情報は西日が射している時刻にそのようなことがあるらしいということであった。
うーむ。湿気で私の家のドアが開かなくなるのと同じ、この館も太陽で伸び縮みしていたとは。
晴れた日曜の夕方。
普通の家では庭に水を撒いているであろう。
ホースで鍵穴に放水をする一人の男性在り。
私はそばに居る犬ぐらいの役回り。
「開いた開いた」
驚いた。
鍵が開かなくなったら、鍵穴に水を撒くとそれで鍵は冷えて開く。
ちちんぷいぷい〜。
ひらけ、ごま。
水は偉大な力を持っているのである。


投稿日:2007年09月16日

2007年09月16日

「宇宙一、美味しい焼き鳥屋なんだよ」
そう言われて、ある焼き鳥屋さんに連れていってもらったことがある。
私は焼き鳥に興味がないので、「へー、そうなんですか」と食いつきが非常に悪かったと思うが、行ってビックリ、一緒に連れて行ってもらったみんなも口を揃えて「本当に宇宙一ですね!」という感想を述べたのだった。
私もビックリ。
全く「焼き鳥」に反応をしない私が、この店にもう一度行きたいとあの日から思うようになったのだ。
多分、宇宙一ここのつくねは美味しい。今までどの「美味しい焼き鳥屋」に連れて行ってもらっても、つくねは串に刺さった肉団子程度でしかなく、「一応、食べとこかな」ぐらいで、「一応食べてはみた」というのが感想だったのだが、ここの店のつくねはおかわりをしていたのだった。
今日はその店のある浅草方面に来て、それをふと思い出した。
一緒に居た会社のY氏は、体内の細胞が焼き鳥と焼酎で出来ているぐらいの焼き鳥好きなのだ。そこで”宇宙一美味しい焼き鳥屋さんに行きませんか、帰りの運転は私がしますよ”と言ってみたら、これまた驚く程顔色が良くなった。
「じゃぁ、宇宙一美味しい焼き鳥屋さんに行きましょう!」
今までにさんざん、Y氏には「焼き鳥が美味しい店」に連れていってもらった。今日は超穴馬の私がキング・オブ・ヤキトリの店にお連れしましょう!
きっと喜んでもらえる。
それを考えただけで燃えてくる。
「多分、場所はあっちの方!」
この時点で冷静になれたらよかったが、私も盛り上がっていたので「あっちの方!」というだけで、他は何も考えていなかった。
一度しか行ったことのない店。
名前を思い出せない。
目印はコンビニ。
それで辿り着けるわけないじゃないか。
そうして結果、恐らく半径500メートル圏内のところまでは詰めながらも、私は店を見つけることが出来なかったのであった。
何人の人に道を尋ねただろう。ここらに住んでいる人なら知っているはずと踏んだが、やはりちょっと方角がズレていたようで、逆に全員に「この辺に・・あるんですか?」と尋ねられたのだ。
Y氏は「焼き鳥マジック」により、かなり我慢強く付き合ってくれたが、今度は自分が疲れてしんどくなってしまった。
ごめんなさい。
しんどくなってきちゃいました。
Y氏、ガッカリ。
すいません。
しかし、そんなにみんなは焼き鳥が好きなのか。
「宇宙一美味しい焼き鳥屋さんを探している」ことを知ると、道を訪ねた知らない人達がものすごく興味を示し、「え、それはどこにあるんですか!」と逆に細かいことを尋ねられたりもしたのだ。
普段ポーカーフェイスのY氏が、あきらかに暗い顔になっていた。
Y氏を送った帰り道、乗せてもらったタクシーの運転手さんが普段は浅草で走っている運転手さんだとわかり、今日の失敗を話していると、運転手さんまでが「それって、どの辺」「目印は」「あぁ、俺も急に焼き鳥が食いたくなってきたよ」と言うのだった。
焼き鳥って・・・・
そんなに好きな人が多いのか。
あとでわかったが店の名前はI。観光マップには載らない、地元の人達しか行かないやはり地元の人達に評判の店らしい。千束通りと言問通りの交差する少し北側辺りに行けば小さな店がある。


投稿日:2007年09月15日

2007年09月15日

9月は、ある日「空が高くなったなぁ」と空を見上げて思う。
「上を向いて歩こう」という名曲がある。
私も大好きな曲で、今までに何度も歌ってきた。
そして多くの人に愛され続けている名曲だ。
でも、私は歌詞の一部に少しだけ好きになれない箇所がある。
しあわせは雲の上に
しあわせは空の上に
ううん、いい曲なのだ。
でもこの二つの歌詞だけが、頷けなくなった。
病院でミニコンサートをさせてもらった時、なるべく多くの患者さんが知っている曲をやりたいなと思って、この曲を選んだが、最後まで迷ってこの二つの歌詞を書きかえて歌った。
二番の歌詞だから、「あ、変えたな」と思う人は多分居なかったと思う。
いい歌詞が見つからず、作詞としては詰めが甘いなと自分でも思った。
でも。
しあわせは雲の上にはないと思う。
空の上にもないと思う。
しあわせはそんなに遠いところにあっちゃいけない。
9月になって、空を見上げることが多くなった。
少し、空が高くなりましたね。
しあわせは、例えばこんな時。
地上から見つけられる、日々の中にあるものだと思う。


投稿日:2007年09月14日

2007年09月14日

目黒ブルースアレイに岡崎司さんのライブを観に行った。岡崎さんは、昨日リーディングをお願いしに行った岡崎のぞみさんの旦那さんでもある。今日のライブには、のぞみさんも来られるので少し前にのぞみさんと会って、ご飯を食べながらまた打ち合わせをさせてもらう。
去年、岡崎さんは初のソロライブをされて、その時のライブはDVDになっている。DVDはMC含め編集なしでその日のライブを収めたもの。
編集なし。
MCもそのまま。
そのライブがまたとてもよかったのだ。
岡崎さんのギターや曲作りは、骨太サウンドからメロディアスなものまでと幅が広い。だが共通するところは、変拍子などの難解な技で進む曲でも、メロディやカウンターラインがそれ以上にグっと心を掴んでいくというところだ。岡崎さんの作品には”名メロ”が惜しげもなく出てくる。
ライブで演奏されるのは、劇団新感線の芝居で書き下ろされた楽曲なので、曲を聴くとその芝居の中のシーンが思い出されたりする人も多いようで、「この曲は・・・」と、岡崎さんからの説明があるとうんうんと頷いている人達が何人もいた。
お芝居の制作の更に突っ込んだ話になると、ゲストの高田聖子さんが、芝居の中に出てくる「キスシーン」について、エピソードを交えながら、私も含む観客が持っている”芝居とはいえ、キスしたら好きになっちゃったりしないの?”の謎に楽しいトークで答えてくれた場面もあった。
”あぁ、確かあのシーンだったなぁ”
曲を聴きながら、私も芝居のワンシーンを思い出すところがあった。
元は芝居のために書いた曲が、芝居なしで音楽だけで構成されたショウになる。
こういう形でのライブは本当に少ない。
音楽の力があるからこそなのだと納得をして帰った今日のライブだった。


投稿日:2007年09月13日

2007年09月13日

ライブが終わるとレコーディング作業が続く。今はキーボードの小泉信彦さんとのコラボ期間、ビバルディの四季「春 第一楽章」の第一稿のデモを小泉さんから受け取ったが、とても上質なセンスのいいデモで、先輩、さすがだなぁと思う。
小泉さんはこの夏、並行してツアーやライブを抱えていて、表向きのスケジュール以外にもレコーディングや自宅作業がてんこもりだったので、個人的にはいたわりの気持ちでいっぱいだったのだが、「こちらもよろしくお願いします!」と明るい口調で作業をいっぱい押し付けていたのだ。
小泉さんの音楽は懐が広い。リクエストを受ける立場にある時はどんな困難なことでも、ポーカーフェイスでそのリクエストに応えられて、ご自身の音楽をやるとなればそこでは見なかった別の引き出しからスルスルと音楽が出て来る。
私は過去に於いて、自分にはそんなつもりはなかったが生意気なやつとして、「先輩」にガツンとやられたりすることがたまにあったので、どちらかと言えば「先輩」に対して心をちょっと閉ざし気味の傾向にあるが、小泉さんは数少ない自分が心開ける先輩の一人なのだ。
この「春」をやりたいと言ったのは私で、誰でも知っている非常に触りにくい曲だ。非常に触りにくい題材だからこそ、小泉さんにだったら料理してもらえるという期待があった。尊敬する音楽家なのだ。
第一稿デモをもらうと、今度は同時進行で別作業に分かれる。この「春」は同じタイトルでウイリアム・ブレイクという詩人が書いたとても柔らかくシンプルな詩があって、曲にこの詩のリーディング素材を散りばめていくのだ。今度はこの詩をまずリーディングしてもらう作業があるので、私はリーディングを頼みに行く方を担当する。
ワンワン!
私は時々、突進する。
あの人に頼みたい!
他の曲でこの後お願いをしたいなと思って、密かに企画をあたためていた岡崎のぞみさんに突進をする。のぞみさんは語学に堪能なだけでなく、芝居やセリフについてのお話を何度か伺ったことがあって、言葉をとても大事にご自身も言葉を仕事をされている女性だ。
確か私は石橋を叩いて渡る性格のはずだが。
血液型を聞かれ、「あぁ、A型の感じがしますよね」とよく言われるのだが。
場所によっては”内気”と言われることもあるのだが。
時々、突進する。
今年は亥年。
あちこちに電話をしてのぞみさんを捕まえ、リーディングのお願いをしてそのまま今日、資料を届けるというところまで突っ込んでいった。突進は、辞書に何とあるのか知らないが”強引に押し掛ける”というのが私個人的な意味らしい。
突進した先で寿司をご馳走になった。
帰り道にふと猪から人間に戻ると、少し自分の行動を恥ずかしく思ったのだ。
何故、こんなに長い文章になるんだろう。
一行でまとめることも出来るのに。
「今日はレコーディングで、夜はお寿司を食べました。」
燃えると突進をする傾向にある。
時々、私は突進する。


投稿日:2007年09月12日

2007年09月12日

今日の午後は、一年前にチビ太が亡くなった時にお願いをした移動火葬車に来てもらう予定になっている。
花に囲まれたゴン太。家に居たら、こんなに華やかにお花を飾ってあげられなかった。
何を話そうか。
まだ、いろんなことが整理出来ない。
ごめんねばかり言っている。
チビ太にはこんな風じゃなかった。
「ごめんなさい」と「ありがとう」。
同じ5文字なのに、こんなに気持ちが違うものなんだ。普段の生活の中では時々、”ありがとう”の意味で”ごめんなさい”と言葉が出ることもあるが、今はあきらかに”ありがとう”の真反対にある”ごめんなさい”。
いつまでごめんって言っているんだろう。
ダンボは悲しそうにしていない。何かいつもとちょっと様子が違うなといったぐらいで、ゴン太に近寄ってクンクンと鳴くわけでもなく、ウロウロするのに飽きたら自分の陣地でくつろぎ毛づくろいをして過ごしている。
動物はシンプルだ。
ゴン太もそうだった。あんなに大好きだった先住のチビ太が亡くなると、寂しくて後を追うようにして逝ってしまうのではないかと思ったが、ゴン太はすぐにチビ太を忘れた。一匹の暮らしを特に楽しむでも悲しむでもなく、眠りたくなったら眠り、食べたくなったら食べ、起きて何かしたくなったら行きたい場所に行ってみたりと、目の前にある興味のあることに常に迷うことなく手を伸ばしていた。
3歩歩いたら、全部忘れちゃうゴン太。
私のように感受性が強い人間は、シンプルにあこがれる。毎日を幸せに送りたいのなら、その人の細胞がシンプルであるかどうかは一つの条件としておおいにあると思う。
ゴン太は幸せなフェレットだった。
見ていてそれを感じられた。
ご飯を食べている時に触ったら怒ったのはゴン太だけ。ケージの扉を怒って開けたのもゴン太だけ。
自由が大好き。
だから私もいろいろ考えた。
大事にしていたんだよ。
とっても。
足りないことはたくさんあったし、こんな風に今はごめんねしか言えないでいるけれど。
目の前にある小さな夢が叶うよう考えることが、私のゴン太への愛情だった。ちょこちょこと歩くゴン太の後ろについて、行き止まりになった場所のドアを開けて自由の続きを自分が作れたら嬉しかった。はたから見れば滑稽な関係だったかもしれないが、ゴン太が起きている間のそれは私にとって一緒に過ごせる幸せな時間だった。
多分、ゴン太はもう怒っていないだろう。
それより私をもう忘れてしまっただろう。
忘れていいよ。
ゴン太は。
火葬車の中に消えて行った時、後悔とざんげ、感謝と愛情、悲しさと寂しさ、いろんな感情があふれてしょうがなかった。
いつももう二度とこんな無邪気な性格の仔には会えないと思っていた。
さようならは寂しい。
アホのゴンちゃん。
間抜けなゴンちゃん。
歯が出ていて、目と目が離れていた。
ブサイクだと誰かに笑われると、私も一緒に笑った。
バイバイ。
ごめんね、バイバイ。
私にとって自慢のゴン太だった。
骨を拾い、部屋に戻ると本棚のチビ太の骨つぼの横に置く。
左がチビ太、右がゴン太。
「ありがとう」と「ごめんなさい」が並ぶ。
どれだけ大事に想っても、大切な存在との別れはそのどちらかしかない。
並んだ二つの骨つぼを見て思った。
これが動物との暮らしなのだと。


投稿日:2007年09月11日

2007年09月11日

ホテルのチェックアウトを済ませてから、祐民子ちゃん達には京都で待ってもらって実家の父に会いに行ってきた。
本当は今日はみんなと京都で別れて、私は大阪に一泊して一日ズレて帰るつもりだったが、ゴン太のことがあったので予定を変更してみんなと一緒に帰ることにしたのだった。
一人で帰るのが心細かった。
一緒に帰りたかった。
数日間の旅でいろんなことを共有したような気がする。それは出掛ける前に想像していたよりも、ずっと中身も濃く大きいものだった。
写真もたくさん撮ったが、脳裏に記憶された一瞬の枚数達もとても多い旅になったんじゃないだろうか。一日前のことがもっと前の出来事のようにも思えて、多分年月が経てば経つほど、いい旅だったとかみしめるような気がする。
大津のサービスエリアは薄曇りの晴れ。
休憩時間、ベンチに座って祐民子ちゃんは琵琶湖を眺めていた。今日は「琵琶湖ってこうして見ると海みたいですね」と景色に感動している旅のヒトの顔だった。
高速は特に渋滞もなく、途中何度か休憩をはさみながら、東京には夜の10時頃に到着をした。
一番近い祐民子ちゃんの家の前に車が着くと、「ニャー」と声がした。2匹居るうちの、外に出たがる方のネコちゃんだった。
ニャー。
少し離れた場所まで近付いてきていて、「おかえり」と挨拶をしていて、”あぁ、このネコちゃんなんだ”ということがわかった。金沢に出発をした日、東京はその夜台風で暴風雨にひどく荒れていた。祐民子ちゃんはこの外が好きなネコのことを”大丈夫かなぁ”と心配していた。留守の間このネコを家に閉じ込めないで自由にさせてあげたいと思って外に出したものの、やっぱり自分の選択が正しかったんだろうかと振り返った瞬間はあっただろう。
はじめまして。
元気にしてたんだね。
「ニャー」とだけしか言わないが、そこに座っているネコちゃんを見たら嬉しくなった。
自分は帰ったら亡くなったゴン太の姿を見るのだろう。だがこの悲しみを祐民子ちゃんは、台風の日に疑似体験をしていたのだ。だから、ニャーと鳴く姿を見ると本当に嬉しかった。よかったよ、キミはそんなことも知らないだろうけど。はじめましてのネコちゃん。
お疲れ様でした。
一緒に旅をして本当にいい時間を過ごせた。
音楽の旅、出来たね。
いろいろあって、いろいろあったけれど楽しかった。
祐民子ちゃんと別れて、私も家に送ってもらう。
「ただいま」
ゴン太は最近気に入って寝ていた方のかごの中、タオルに包まれて眠っていた。
ゴン太の体があったかいような気がした。
抱くと動いたような気がした。
そんなはずはもうないのに。
眠っているような顔で、だけど目と口がギュっと閉じていて、それは眠った顔のゴン太ではなくチビ太が亡くなった時と同じ閉じ方をしている。ゴン太が亡くなったことをそれで現実のこととして確認したのだった。
ダンボがいつものように飛びついて来る。
ただいま、ダンボ。
チビ太が死んだ時と同じように、椅子にゴン太を寝かせて自分のベッドの横に置いた。頂いたお花がたくさんあって、それをゴン太の周りに添える。チビ太が亡くなった時も頂いたお花がたくさんあって、それも一年前と同じだ。
ごめんね。ゴンちゃん。
小さな頭だ。
年を取ってきてからは、あまり触れなかった。撫でたり、抱っこをしたりすると人間の手の重みが負荷になるかもしれないという風に思うようになっていて、昔のようにムンズと掴んだり、軽く触るということが出来なくなっていた。
ゴン太の頭。やっと気にせず撫でられる。
自分の触りたい気持ちで撫でられる。
今日は本当は私にとっての夏休みだった。一日、全部のことを置いて好きに過ごせる日として、めずらしく「この日は休みにします」と伝えていた日だった。
この姿のゴン太と過ごせる最後。
だから今日はもう何もしなくても大丈夫。
一緒に居させてね。
キツネみたいな顔になったゴン太だった。
星になったの。
何になったの。
私が居ない間にゴンちゃんは楽しい姿だけを思い出に、苦しいとも痛いともその姿を私に見せることもなく、もう二度と目を開けてはくれないゴンちゃんになった。