投稿日:2009年03月05日

2009年03月05日

幼稚園の頃、私は尼崎に住んでいた。駅は塚口という駅で、かなり駅から家までは遠かった記憶があるが、それでも最寄りはこの塚口駅だったのだと思う。どこかに行く時、電車はこの駅から乗っていたからだった。
その頃はまだ駅は高架になっていない踏み切りがある小さな駅だった。北側の方が栄えていて、南側には幼稚園で同じ組の子の中華料理店があって高いビルは一つも建ってはいなかったのだ。
北側の駅のそばに、子供心に奇妙な存在の店があった。
何屋さんなのかはわからない。ただ、店のところをショートカットで行ける道があって、それで駅に行く時に前を通っていたのでそのお店を通る。品物が店頭に出される風でもなく、喫茶店のような感じでもない。何屋さんなのか外からは見えず、入口に木彫りの女の人の壁掛けが飾ってある古い木造の建物だった。
木彫りの壁掛けは、今から思えばどこかの土産物屋さんに置いてあるような物なのだが、そこに浮き上がる女性の像が私には怖い幽霊に見えた。だから私はその前を通るのがイヤだったのだが、別に泣いてゴネたわけでもなく、母に「怖い」と打ち明けることもなかったので、その店のことは多分私の中でしか残っていないのだと思う。随分経って派遣のバイトで塚口に行くことがあって、駅を見に行ったら駅前は踏み切りもなくなって高架になっていた。その頃とは全く違う景色になっていて、そしてあの壁掛けの店もなくなっていた。
薄暗い古いあの店は何屋さんだったんだろう。
怖かった壁掛けはきっと誰かの作品だったんだろうが、大人にとっては作品でも、子供には呪いの何かにしか見えないことがあるのだ。
今日は渋谷にラジオの収録に行った。
ハチ公の反対側にある待ち合わせのモアイ像の前を、いつものように通る。
モアイ像もあの頃の私が見たら、怖い奇妙な像にしか見えなかっただろうなと思ったのだった。


“ 4 件 ”のコメントがあります

  1. 明治20年築 より:

    幼稚園の頃、火災予防のポスターに焼けた部屋の写真が載っていて怖かったです。。
    友達が西宮の大学に行ったので塚口に住んでいて、夏休みに訪ねたことがありました。
    震災前のことですので、町並も大分変ったのだろうなと思います。
    六甲までドライブしたなーとか、懐かしく思い出されました。
    今は全く接点がないのですが、思い出したように、たまーに連絡が来たりします。
    そうすると、お互いの会話が全く変わってなかったりします。。
    嬉しいやら悲しいやら。。

  2. 吉川みき より:

    塚口をご存知でしたか!当時住んでいた社宅が塚口にあって、それで私は幼稚園の頃にここに住んでいたんです。すごくお転婆だったんですが、やっぱり怖いものはあって、他にはチャルメラの音が聞こえてくると怖がったいたみたいです。火災予防のポスターは、多分子供の目には怖く映るでしょうね^^:え、もしかして家の中に張ってあったりしたのかしら。・・・ではないですよね・・・^^:

  3. 明治20年築 より:

    幼稚園のころの記憶、結構鮮明に残ってます。
    道の白いペンキの点々とした痕とか、マンホールの模様とか、隣の子のお弁当の桜でんぶがおいしそうだったとか^^
    チャルメラの音ですか・・・僕にはとても物悲しく聞こえてましたー。
    ポスターはですね、、集会所の広報版に貼ってありました。
    そこを通るのがイヤで、わざわざ遠回りして帰ってました。。

  4. 吉川みき より:

    私の記憶は3歳以降で女の子は割とこれぐらいの記憶がある人が多くて、男の子は記憶がもっと後になってから・・・の人が多いみたいなんです。幼稚園の時のことを一つも思い出せない!と言っていた人が数人周りにいましたよ!明治20年築さんは幼稚園の頃のことが鮮明に残っているんですね〜。

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