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投稿日:2010年07月31日

2010年07月31日

心の知能指数「EQ」が、今は知能指数の「IQ」と同じぐらいの注目を浴びているのだそうだ。
よりよい社会人になるためには知能指数だけではダメなのだそうで、感情などをコントロールしたり物事の受け止め方であったり、人間性の部分も大事な要素ということで、今は就職試験にもこの「EQ」テストが組み込まれているところもあるほどなのだ。
子供の頃の私は知能指数が高かったらしい。小中学校の頃は母が懇談会の際にいつも言われていて、進学塾の入塾テストも知能指数は高いという理由で特別に入学出来た。数字は何故か昔は秘密にされていたみたいだが、一度だけ教えてもらった時があった。その時に聞いたのは確か145ということだった。
しかし永遠にその高さが続くのかと思ったら、そうではないらしい。それぞれの年齢に対しての計算方法があるのだそうで、数年前に計ってみたら私のIQは100台、年齢を重ねたら2/3に知能指数が減っていた。一体私の頭の良さはどこに行っちゃったんだろう。あぁ〜あ。どこかで落としてきてしまったのだ。
そして「IQ」だけでなく「EQ」も、本人の変化と共に変化するらしい。
「EQ」診断という面白そうなサイトを見つけたので、ふと思い立ってやってみた。
すると・・・・。
あなたに適した職業というのが出て来て、その中に「臭気判定士」というものがあった。漢字からだいたい想像がつくが、臭いのプロということなのだろう。こんな職業があるだなんて知らなかったのだ。
「あら?これ何の臭いかしら?」とすぐ臭いを嗅ぐ人がいる。多分これは臭いものだとわかっていても、確認をせずには居られずに勇敢に臭いを嗅ぐ人が居るが、私はあれが信じられない。
そのあと「やだ。くっさぁ〜〜い!」と言ってむせながらも笑っていたりするので、すごい生命力の人だなと驚き尊敬もするが、私には真似出来ない。もし自分が臭いニオイを嗅いだとしたら、「あっ」と声をつまらせそのままフリーズ、あとはしばらく、鼻の奥を「山菜の蕨」のような形をした臭気に占領されたような気分に覆われ、しばらくの間立ち直れなくなる。果敢に臭いを嗅ぎに行くだなんて、とてもじゃないが怖くて出来ないのだ。
臭いに敏感なのかもしれないが「残り香」に打撃も受ける。しかし何を以てEQテストで臭気判定士を勧められたのであろうか。
世の中にはたくさんの仕事があって、こういうことからでも何でもいいので、いろんな職業があることを知ることが大切だ。
よ〜し。今日は一つ勉強したので、知能指数が上がっていたら嬉しいのだ。


投稿日:2010年07月30日

2010年07月30日

コメンテーターの人が出ているような番組を見ていてよく思うことがある。
それは、まず疑ってかかる人が多いんだなぁということだ。
何かのVTRを流したあとで、コメンテーターの人が感想を話し出す。その時に7割ぐらい自分とは意見が違っていたりするのだ。「これは一つの戦略ですよね」「見え見えですよね」と、ほぼ断定した形で「ですよね」ということになって、なんだか知らないが編集の仕方も無理矢理、その「ですよね」とつじつまが合うような形になっていたりするので、全く逆の感想を持った私はポツンと少数反対意見的な取り残された感じをよく味わうのだった。
私が読みが浅いということなんだろうか。
いいや、私は私の感覚で人に対する判断はそれなりにしてきたつもりだ。それで人に裏切られたり、人間不信に陥る様なひどい出来事にあったわけでもない。それに自分はどちらかと言えば警戒心が強く、なんでもいい方に受け取るような懐の広い人間でもない。
そんな私でさえ、「え?」と思うような話を受け止め方をされていたりすると、一瞬混乱することがあるのだ。この人達は私より沢山物事を追求している人だから、きっと的を得た見解を述べてくれる人に違いないという思い込みが、一瞬自分に自信をなくさせる。
だが、ちょっと待てよ。
なんか気になる。
コメントを求められる人達の感想についての率直な感想は、何でもかんでも深読みしすぎなんじゃないのかしらってことなのだ。
人の話を聞くのなら、まずはその人のことを知ろうと耳を傾けないものなのだろうか。「この人は本当に一生懸命本心を話している」という風にまずは疑わない心で人の話を聞く姿勢が感じられないところが、気になるというか不快に感じるポイントだと思う。
まず最初は信じてみて、それから何度かあと・・・でも判断は決して遅くはない。それぐらいの猶予があっても決して遅くはないと思う。
まずは疑う人と、まずは信じる人。
何が両者の考え方を分けるのかはわからないが、少なくとも私は後者の人の方が信用出来る。
疑い深い人の言葉からは感動はない。
いつも感動した時に、私の心は動くのである。


投稿日:2010年07月29日

2010年07月29日

久しぶりに雨が降った。
毎日毎日、刺すような日差しでちょっと外に出ただけでも皮膚が焼かれている感覚があって怖いぐらいだったが、雨が降れば降ったで「せっかくの夏なのに」ともったいな気がするから欲張りなものなのだ。
でも木造の家はこの夏の日差しで、建物自体もひからびていたんじゃなかろうか。だって花や木も一日水をやり忘れたら土がカチンカチンに乾いている。家はまるごとさらされているんだから、縮んでいたっておかしくはない。家の外壁にも水をやった方がよいかもしれないぐらいなのだった。
たまには雨でも降ってくれないと・・・と思っていたので、タイミング的には必要な雨だったとは思うのだが・・・・。
夏は夕立の雨が好きかなぁ。
サっと降って、またカラっと晴れる。
あんまりグジグジ悩まない人のようで、雨に降られてもこっちもスカっとする。
明日晴れるといいな。
蝉くん、だけどこれが雨ってものなんだよ。
雨音だけが聞こえて来る。夏の一日だった。


投稿日:2010年07月28日

2010年07月28日

外来日。
2週間前に近所のクリニックから「異常あり」と言って渡されたレントゲン写真を持って行った。
まず2年前のレントゲンと比べてもらう。すると2年前のレントゲン写真にも似た輪郭のものが写っていた。悪性の腫瘍だったら、この輪郭の部分がケバ立って現れるので多分問題ないだろうと思うということで、念のためにと8月に入ってからCT検査を受けることになったが、だいぶ私の緊張していた心はほぐれたのだ。
この2週間はやっぱり暗かった。考えても仕方のないことは考えないでおこうと何度も自分に言い聞かせて過ごしていた。だが、それを何度も自分に言い聞かせるとうことはやはりそれだけとらわれていた証拠なのだ。
ここしばらくで、やっぱり体のことが私にとっては一番大きな悩みになるんだなとあらためて思った。
元気だったらなんだってやれる。普段人にもそう口にしてきたのに、私自身体に無意識になれていた時にはいつの間にかその有り難さを忘れて、仕事を含めた日常の中の小さなことでクヨクヨした時間がなかったか。いいや、そんなことはなかった。馬鹿だったなぁ。何てもったいないことをしたんだろうと悔やんだ。
仕事も生きて行くには大事。だけど、もっと人として大きな枠で日常を捉えて、おおらかにそれらを1パーツとして、少なくとも日々の中でダメージを受けたりしたとしてもそれらを小さなこととして置いていけることをもっと意識したいなと思った。
穏やかな日々を、楽しいと感じる心を、それから今年の夏の思い出もこれからまだ間に合うから作って行こう。
「自分を好きになりたい」という言葉はよく聞くけれど。
身体も大事な宝物なんですね。
いつか魂が別れを告げるまでのこれは借り物。
たまには思いやりも必要だし、大事につき合わないと。
まだつき合って欲しいから。
自分の身体を今日はとても愛しく思えたのだった。


投稿日:2010年07月27日

2010年07月27日

久しぶりに「あてもなく行ってみようツアー」を開催した。
特に行き先を決めるわけでもなく思いつくまま「あっちの方に行ってみよう」を繰り返して、日が暮れるまでを目処にどこかに出かけるという行き当たりばったり的なお出かけが私は大好きなのだ。行ける所まで行ってみて、日が暮れたら帰って来るという予定も立てずに出かけるお出かけ。
当然、思いつきで出かけるのだから、現地に着いてもこれといったトピックスもない。下調べをして行ったらもっと見所や時間を上手く使えることはわかっていて、だからこのアバウトなお出かけの一体どこがいいのかと尋ねられそうだが、自由を思い切り味わえた感じになれるのがいいのかもしれない。私はこのあてもなく行ってみようツアーに出かける度に、自分の優先順位の一番は「自由」なんだなぁとあらためて思うのだった。
今日は特急に乗って終点まで行ってみたくなり、結局池袋からレッドアロー号で西武秩父に行くことにした。座席が前向きの電車は何故かしら旅気分にさせてくれる。時刻になって列車に乗ったらまず最初に旅行の時に乗る電車の匂いがして、それだけでもう遠いところまでやってきたような気分になった。
東京は線路のすぐそばに家があるエリアが広い。西武池袋線は昔保谷駅のそばに祖母の家があって、線路のすぐそばだったので電車の音で朝は目が覚めたものだ。その保谷駅も特急は通過してどんどん先に行く。飯能駅を出たら急にのどかな風景に変わり、そこからは緑の景色が多くなる。山道が電車の中から見える。どこかに似ているなぁと思ったら、亀岡〜高槻の間を結ぶ山道に似ていた。実家に居た頃も車でよくブラリ走ったっけ。
西武秩父駅。去年同じような感じでフラっと高雄に行ったが、あの時は駅についたら東京とは気温が違って涼しかった。秩父も涼しいと思っていたのだが、こちらは暑さは変わらない。西日がジリジリと駅前のロータリーを照らしていた。
さて、どこへ行こうか。実は一カ所尋ねてみたいところが本当はある。それは子供の頃祖父、祖母、母、妹と一緒に行った秩父にある温泉旅館だ。池袋から特急に乗って終点で降り、そこからバスに長く揺られて小さな赤い橋を渡ったところにある旅館に泊まった懐かしい思い出がある。なんていう旅館だったのか記憶にないが、いろいろ調べた結果美やまという旅館がその旅館かもしれず、いつか尋ねてみたいなと思っていたのだった。
もしかしたらうまく辿り着けたりして・・・なんて思ったが、そうそううまく行くはずがない。結局循環バスに乗り、途中下車をしてまたフラっとやってきたバスに乗って、そしてまた西武秩父駅に着きそれでおしまいの旅になった。
また特急に乗って来た道を戻る。
あぁ、でもこれが私にとっては時間が経つ度にかけがえのない思い出に変わるから不思議なのだ。
ただ今までと違うのは「ツィッター」でつぶやきながらのブラリ旅になったということだ。
「ツィッター」があれば、一人ではどうしても行きにくかったディズニーシーもはとバスツアーも一人で行けるような気がする。
あてもなく行ってみようツアー、今年の夏はまだまだ出かけるのだ。


投稿日:2010年07月26日

2010年07月26日

「愛を読むひと」という映画を借りてきて観た。前から気になっていた映画で、でも内容が少し重たいかもしれないなぁとなかなか手が出なかったのだ。
気になっていたのにはタイトルも理由の一つだった。以前に観た映画でよかった「きみに読む物語」という映画とタイトルが似ていたからだ。確か評判もよかったと思う。なのでこの似たタイトルの作品にも期待したのだったが・・・・。
正直な感想は・・・。
映画を観終わったあとで私はうら寂しい気持ちになった。一旦やや男性不信に陥って、それから冷静になると、あぁこっちの方がリアルな男性像かもしれないなぁとも思えてきたのだった。
主人公の男性がどうしてその行動に出たのかがわからない。
しかもいちいちわからないのである。
謎。
しかし一つ言えることは、映画の中で理解出来なかった部分が、私自身の現実に於いて同じく理解出来なかった部分と一致する。とすると、男性がこの映画を観れば違和感がないのかもしれない。
とにかく私にとっては心温まる映画でもなんでもなく、どことなく後味の悪さが残る映画となった。
しかし映画はとにかく観れば何かしらのものを与えてくれる。作品として2つの似たタイトルの映画を比べるのではなく、思い切って登場する男女のタイプの違いにフォーカスを当てると面白いなぁと思うのだ。特に男性のタイプが2つの映画では全然違う。だがどちらのタイプも、そういえば居る。もしもこの2つの映画の男性を入れ替えたら2つの映画のストーリーは変わっていただろう。
映画という作り物の世界でも、主人公の人間性でストーリーが大きく岐路を変える。
実在の私達の人生もまた、運命によって決められているのではなく、個々の人間性で岐路が変わっていくのだなぁと思ったのであった。


投稿日:2010年07月25日

2010年07月25日

夏の空は青い水色。
雲は白く立体的にあって。
木々の緑色と空の水色が、互いに引き立てあって晴れた日に上を向けばコントラストがはっきりして、全ての物に輪郭がしっかり浮かび上がっているのがわかる。春は薄く紗がかかったように淡い感じが春らしく、秋はグラデーションで世界がつながっていき、冬はモノクロに寄った色の少ない景色になる。
上を向いて歩こう。
上を向いて歩いたら。
季節が絵画のように描かれているのがわかる。
アクリル絵の具で描いてみました。
油絵で描いてみました。
色鉛筆で塗ってみました。
上を向いたらいつも風景画がある。
夏は輪郭がはっきりした力強い作品。
木陰から蝉が飛んでいったよ。
夏の風景。


投稿日:2010年07月24日

2010年07月24日

バイクで信号待ちをしていたら、すぐ前のバイクの後ろに乗っている女の子が煙草を持っているのを見つけた。
バイクに乗りながらの煙草はやめて下さい。
すると運転席の彼氏も煙草を持っているのが見えた。
二人してバイク中に煙草を吸うのはやめなさい。
しかし信号が青に変わると発進して行ってしまった。頼むから煙草を今捨てないでくれ!とお願いをしながらヨロヨロ運転をしていたのだ。
んもう!非常識。危険。
私はつい先日、実際にバイクで走っていてどこの誰が投げ捨てたのかわからない煙草の火種が自分の洋服の前部分に当たって、火花を浴びたばかりなのだ。この時は怒り狂ってどの車に犯人がいるのかと信号待ちをしている場所まで頑張って追いかけてみたが、結局どの車かがわからないまま憎しみいっぱいの気持ちでまた信号が変わりブーンと去っていく車達を見送ったのだ。
投げ捨てた方は、自分の捨てた煙草が後ろの誰かに当たっているだなんて思いもしないんだろう。また知ったとしても、「あぁ、それは本当に申し訳ないことをしてしまった」と心から反省をしたりもしないんじゃないか。君らもチョイノリに乗ってみろと言いたい。チョイノリは馬力がない分、自走以外の余波を受けることが多く、自転車にあおられたり改造マフラーの空気砲弾を思い入りボム!と受けたり、先を行ける人にはわからない出来事に多々遭遇してきた。
だが火種は危ない。
不意に火種が体に当たってはじけて火花が散れば、思考がフリーズする。「何故、どこから、火種が?!」と、火種をはらいつつハンドルを取られたのだ。あのまま電柱に突っ込んで死んでいたら、私は単純な運転ミスで自分で事故をして死んだことになっていた。冗談でなく火種は運が悪ければ死亡事故を起こすのである。
チョイノリの馬力はない。時速40キロも出せば車体ははちきれそうにブビビビとうなっている。
高円寺陸橋の所ではオレンジ線を踏んだドライバーの摘発を頻繁にやっているが、煙草をくわえて運転している輩をもっと取り締まってもらいたいのだ。
これからは投げ縄でも修得して、自分で捕まえて説教しようかと思うのである。


投稿日:2010年07月23日

2010年07月23日

この暑い日差しに変わってからも相変わらず午前中のダンボは東の窓のところで日光浴をしている。この窓は出窓ではないのだが10センチ程度の木枠があって、幅は決して広くはないのにここに無理矢理座って過ごしているのだった。
別に外を見ているのではなく、ひたすら太陽の日差しをあびてそこに座っている。
「まぶしくないの?」
くつろげる場所は他にたくさんあるのに、敢えてそこに居る。バツで狭い場所に置かれたような形なのだが、本人が気に入ってそこに居るからしょうがない。
しばらくしたら東の窓枠からダンボは移動をする。
「ほら、やっぱりそこじゃぁくつろげないでしょう」
そう笑ってみるのだが、そうではない。よく見ると木枠の辺りに差していた日がいつの間にか弱くなり、今度は南の大窓のところがまぶしい日差しを受けていて、そこでダンボは毛づくろいをしてやっぱりくつろいでいるのだった。
洗濯物でさえ数時間で色あせをさせるこの日差しの中で、よくくつろげるものなのだ。
そして夕方になると西日が差し込む西の窓の下に行ってこれまた、マーライオンのようにじっとしている。
ダンボは一日をかけて部屋の中を移動し、戻って来たらちょうど日が沈むいい頃になっていて、そうして「じゃぁ散歩にでも行こうか」ということになるのだった。
お腹と顔はすっかりシミだらけ。
牛柄になったダンボ。
我が家の日時計はこうして一日の時間を教えてくれるのである。


投稿日:2010年07月22日

2010年07月22日

インターフォンのところに「セールス勧誘かたくお断りいたします」という札が貼ってある家がある。うちも貼ろうかと何度考えたことか。文章が冷たく感じるので、本当に尋ねてくる人のためにあえて貼らないではいるものの、私にとって必要のない押しベルは迷惑に思っているのだ。
先日は試供品の乳製品をと勧められた。うちは取れないんで結構ですと断ったのだが、「そうじゃなくて、飲んでいただいて感想をいただくだけでいいんです」とセールスではないとこを強調され受け取ってしまったが、この空き瓶を回収に来られた時に勧誘を受けるんだろう。
「今度の日曜日に大事なお祭りがありますので、是非ご参加を下さい。チラシを入れさせていただきます」とわざわざインターフォンを押して言われたのも、町内会の夏祭りのことではない。去年と同じ宗教の勧誘だとわかっているので返事する気力が失せた。
宅配スーパーも私は来週の献立までとてもじゃないが考えられないので、無理です。この辺で今工事をやっていて、今なら無料キャンペーン中ですと言われてもネットの接続会社をかえるつもりは当分ない。来週までこの辺を回っていますので、また来ますと言われてももう来ていらないのだ。
インターフォンが鳴ると、ダンボは興奮しそして私に飛びかかったり噛み付いたりする。何度しつけの本を読んでもダメで、だいたいインターフォンが鳴ったら大好きなオヤツさえ効き目がなく、犯人に食いつく警察犬のようにダンボは攻撃モードに突入する。そのしわ寄せを私は受けているのだった。「痛い、痛い!」と言いながらインターフォンでかろうじて返事をしている時がある。押した本人は理由を知らないだろうが、あんたの押しベルがきっかけになったのである。
その上、ゆったりした口調で「お忙しいところ、申し訳ございません。わたくし、@@と申します。」と悠長に話すのはやめてはもらえませんか。宅配の業者さんか本当に用事のある人以外はもう呼び鈴を鳴らさないで欲しい。精一杯の低い声で「結構です」と怒りを集約しているのだが、やっぱりあのお断りステッカーを貼ろうかと何度も揺れるのだ。
貼ったらどれぐらい効果があるのだろう。
ゼロにはならないものの、いくらか影響はあるのだろう。
なんとかこの状況を打破したいのだ。もうこうなったら勧誘の人を家に上げて、自分のCDを買ってもらう方向にシフトチェンジをした方がいいのかもしれないのであった。