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投稿日:2010年10月31日

2010年10月31日

10月31日は日本でももうすっかり定着をしたハロウィン。
ハロウィンの始まりは、ケルト民族の一年の終わりが10月31日だったことにある。この日の夜は死者や精霊、魔女が人々のところに出て来ると信じられていたのだそうで、これらから身を守る為に仮面や魔除けの焚火を焚いたりしたのが、ハロウィンの元の形なのだそうだ。
日本ではまだ精霊、魔女という言葉は新しい言葉になるだろう。
テレビではタレントさんが「小さいおじいちゃんを見た」「羽根の生えた天使を見た」と真面目に話していたりするが、私の友人でも見える人がわずかに居て、「小さいおじいちゃん」が見える人と、それから「天使」が見える人を知っているのだ。
私はそれらに遭遇したことはなく、「天使」はみんな羽根が生えたエンジェルちゃんみたいなのかと思っていたのだが、そうではないらしい。以外とグロテスクな小さい化け物風なものだったりするらしく、寝ようとベッドに横になったら目の前にプラーンと現れて浮かんでいたりするのだそうだ。天使は別に何か魔法をかけてくれたり、特別なことが起こしてくれるわけではないようで、友人は「あぁーーっ、うっとおしい!」と言って払い除けることもあるらしい。見える人には、小さい物体が居てももう今や不思議とも何とも思わないらしい。
でも私自身は一度も見たことがない。なので、存在自体がなんとなくまだ信じられなかったりする。脳が錯覚を起こしてそういうものが存在していると感じているのかもしれない、などと理由を考えたりするのだった。
我が家の天使はヒーターの前でドテンと無防備に横になって眠っている。
「オヤツをくれなかったら、イタズラするぞー」
まぁ、このちっちゃな白い犬の着ぐるみに年中オヤツをせびられているので、毎日がハロウィンみたいなものなのである。


投稿日:2010年10月30日

2010年10月30日

一人前は割高なのだ。
最近おせち料理の予約ページによく行っている。少人数用のおせちでも2〜3名向けになっていて、一人用を探すとないこともないのだが今度は選択肢がうんと減る。
おせち料理は今度のお正月は頼みたいのだが、2〜3人用のを買ったら3回同じメニューを食べるということになるのか・・・。それでは普段カレーやシチューを作った時と同じパターンじゃないか。
このように、一人だと本来自由であるはずなのに不便なことって結構あるのだ。
例えば、旅行。
一人旅でツアーに参加しようとすると、最低催行人数2名以上ということが結構表記してある。一人部屋になると追加料金はもちろん必要になるし、ツアーをやめてフリーで出かけることにしても宿が2名以上の宿泊を前提にしか受けてくれない所も少なくないのだった。
一人で出かけると宿もパックツアーも高くなる。海外旅行となると一人参加費用なんてのを加えたら、2人で旅行する2人分の代金とあまり変わらない料金になっていたりするので、なんだかもったいない気がしてしまい、お出かけ欲があまり湧いて来ないのだった。
別に私は究極、旅行の間だけ友達として行動をするような旅でも構わないのだ。
同じように一人でフラっと旅に出かけたい人とその期間だけ一緒に寝泊まりすることに、今はあまり抵抗がない。もう年頃の娘でもあるまいし、なんか変なことにもならないだろう。むしろ「こういうルートってどうかなぁ」など旅の攻略を一緒に考える戦友になれるかもしれない。んで、それを機会に旅友達になれるかもしれないとさえ思っているのだ。
一人は時々フットワークが逆に重たくなる場合がある。
「おせち料理、あります。」
お正月になったら玄関の前に張り紙でもして、1〜2名隠れ家料亭のようにお客さんを招いてみよかなと思ったりするのであった。


投稿日:2010年10月29日

2010年10月29日

数年前、何気なく借りた「ER」にすっかりハマったことがあった。普段は物事をあまり続けられない方なのだが、この時は初回を見てから毎日毎日「ER」を見続け、多い時には6話ぐらい一気に見ていたのではなかろうか。そのうちに自分の職場がERのような錯覚に陥り、同僚のドクターに会っているかのような気分になっていたのだった。
1月に見始めて結局、私は5月後半までのほぼ半年間を「ER」で過ごしたのだった。途中同僚のダグが居なくなってからはちょっとヤル気をなくしてしまったし、グリーン先生が病気で亡くなってしまった時には本当にショックを受けたのだ。そしてその後、私は「ER」を卒業し、本当の病院に入院し患者として病院生活を送ったのだった。
時々、こうして心身共にどっぷりハマることがあるのだが、最近またハマっていることがある。これまた何気なく本屋さんで手にした東野圭吾さんの「むかし僕が死んだ家」というミステリーを読んだら、ストーリーも面白かったがそれ以上に「家の間取り」の描写などがすごく私の妄想心をそそるものがあったのだ。以降間取り好きの私は、山荘やペンションやお屋敷など普段私の生活圏にはない建物が出て来る東野圭吾作品を次々に読み進めることになっていたのだった。
最初は3日に一冊ぐらいのペースだったのだが、一日一冊の日もあったりなんかして、最近は圭吾の作り話にばかり浸っている。つまり毎日殺人事件にばかり接しているのだった。しかし「ER」の時はみんなが同僚に思えたのだが、圭吾の作品は言ってみれば私の一番苦手な「さて答えは誰でしょう?」といった、なぞなぞbookなのだ。なぞなぞは苦手、刑事みたいに推理を働かせることも出来ないのでもっぱら圭吾作品との付き合い方は「うんうん、それでどうなったの?」と圭吾の話を興味深く聞いているただの間取り好き女なのであった。
私の今年は恐らく圭吾の話を聞いてそして終わるのであろう。
殺人事件ばかりで時々憂鬱になる。
が、読み終わったあとで「あっ、これは本の中の話やったわ」と我に返って急にホっとして平和な気分に浸るのであった。


投稿日:2010年10月28日

2010年10月28日

時々、出身はどこですかと尋ねられる。
「関西です」と答えると「えーっ、全然関西弁が出ないですね」と驚かれることが多いのだが、そんなことはないのである。すぐに関西弁に戻れる私なのである。
しかし、普段関西人以外の人と接する時、私は関西弁を抑え気味であることは確かなのである。で、東京に居るから東京弁になっているかと言えばそうでもなく、やや標準語に近い話し方をしているのではないだろうか。
私が関西弁をしゃべらなくなったのには、大きく分けて2つの理由が挙げられる。一つは東京にやって来た頃に一緒にお仕事をしていた人で関西人が嫌いな人が居たということ。その人曰く、「関西人は東京に来ても、意地でも関西弁を変えようとしないとことが強引で嫌い」だったみたいで、関西弁は暗黙のNG言語になっていた。関西人は強引だと決めつけるのもまた強引な話だなと思ったが、その人の方が仕事上立場が上だったのと、別に言葉使いぐらいで私も喧嘩するのもなぁというのがあったので、関西弁色が濃くならないように気をつけるようになったのが最初だった。
もう一つは、それでも気を許した場所ではフッと関西弁が出ることもあったのだが、今度はそういう場で話をしている時に「えっ、今何て言ったの?」と、話を中断させられ、私が何気なく言ったネイティブ単語について変換をし直さないといけないということだった。
例えば「さっき、わたしパーマあててきてんなー」と話し始めたところで「ちょっと待った!パーマあてた・・・って何?」と思わぬ質問を受けるのである。私にとっては「パーマあてた」は普通にパーマあてたことを指すのだが、この「あてた」が標準語でないばかりに「パーマあてた、なんて言わないよ」「えっ、あてたって言わないんやったら何て言うん?」「パーマかけたって言うよ」「ふ〜〜ん、そうなんやー」「そう。ま、いいや。で、続きは?」「へっ?続きって?」
中断しているうちに、何を話そうと思っていたのかを忘れてしまうということが割とあった。というか、ほぼ忘れた。結局何か話そうと思っていたのに、その話が何だったのかが思い出せずにうんうんうなり、それで会話の中で言葉使いについて水を差されるのが嫌になって、「なるべく標準語で話す」のが定着したのだった。
でも、
考えてみたら・・・・・。
文章の場合、関西弁で書こうが何をしようが途中で話を遮られることはないのである。
ほんだら・・・・、
関西弁で楽に書いたっていいんやん!そうやん!
この前も「ほんだら・・」ってつい気を許して口にしてしまったことで、「ほんだら」っちゅう単語についていろいろ笑われたりそんな言葉遣いはないと言われたりして面倒臭かったんやった。
いちいち会話を止められるのはうっとおしいねん。ストレスやねん。
いいやん。関西弁。
たまには使うたっていいやん。
っていうか、そりゃほんまは関西弁の方が普通に出てくんねん。腸内洗浄みたいにやっぱ慣れた言葉が身体から出て行ったらスカーっとすんねん。
そやな。
たまにこうして文章を関西弁にしたらいいんやった。
スカーーーーっとしよか。
そやけどな、
書いてみて思うたわ。
パソコンが関西弁に対応してへんから、関西弁で漢字使うて文章書こ思たらめちゃ変換が大変やねん。なんちゅー漢字に変換すんねん、このあほ!
あかんな。
書くのんも読むのんも、なるべく言葉使いで労力使わんとこ思たら、標準語に近い言葉遣いするんが一番楽やっちゅうことに気いついたのやった。


投稿日:2010年10月27日

2010年10月27日

外来日。
昨日寒いと思ったら、今日はもっと寒い。
でも景色がクリアで綺麗だ。
晩秋の頃の空気が冷たくなって澄んでくるのが好きだ。
もう今年も残すところあと2ヶ月と少しとなった。
先週より身体が楽になった。
11月からまた少しずつ仕事も始められたらというのが、目標だ。


投稿日:2010年10月26日

2010年10月26日

急に寒くなった。
つい先週まで家でノースリーブで過ごしていたというのに、突然「寒い」のスイッチが押されたかのように気温が変わった。
さぶい。
寒いのとは違う。
さぶいのである。


投稿日:2010年10月25日

2010年10月25日

上手に食べられないという理由もあってか、焼き魚はそれほど好きな方ではない。だが、近所のどこかの家で焼き魚をよく食べる家があるようで、早い夜外から帰って来たり玄関を出た時に焼き魚の匂いがして来ることが結構あるのだ。
少し気温が寒くなって来たなぁと思う頃に嗅ぐ焼き魚の匂いって好きなのだ。
小学生の頃そろばん塾からの帰り道に、焼き魚の匂いで急にお腹が減ってきて今日の晩ご飯は何かな?と楽しみにしながら家路を急いだというのが、私の焼き魚の懐かしい思い出だ。
で、私の家ではほとんど焼き魚は出なかった。
シャケのホイル焼きかブリの照り焼き、サワラを焼いたのがたまに出て来たが、サンマやアジは一度も食べたことがないまま私は大人になったのだった。
理由は父にあった。
父は焼き魚の匂いが大嫌いで、たま〜に母がサワラか何かを焼いている時に父が帰って来ると必ず「なんや!くっさいなー!魚やっとんのか!」「くさっ!くさっ!なんやこの臭いは!!」と大げさに空気を切るようにして腕を振って機嫌を悪くしていたのだ。
母は焼き魚が好きだったのかどうかわからない。だが母もそれほど好きではなかったのだと思う。サワラの焼いたのはいつもパサパサで、美味しくなかった。
外食先で、魚を上手に食べられる人のことを私は尊敬する。食べ終わったあとのお皿が綺麗なのは、子供の頃から魚を食べる習慣があったからだと思う。そして私はどれだけ丁寧にほぐしているつもりでも、ぐちゃぐちゃの残骸風な食べ残し皿になってしまうので、ますます焼き魚を食べなくなってしまっている。
焼き魚の匂いは、私にとっては食欲をそそる匂い。
父は焼き魚の匂いの何が嫌だったんだろう。
そんな父も臭かった。
「なんや!魚焼いとんのか!くっさいわー。窓開けぇっ!」
大げさな声で言う父にちょっと私達は冷めていた。
おやじ加齢臭の方が、私や妹にとってはよっぽど臭かったのであった。


投稿日:2010年10月24日

2010年10月24日

実家の近所に家の一部を店舗にして、たばことお菓子と切手と文房具を売っている店がある。このAという店、今はやっているかどうかはわからないが、私が子供の頃はちょっとした文房具だと家から近いこの店に買いに行くことがあり、他にはたばこや切手も置いてあったので近所の人間にとっては利用する機会が多い店だった。
だが、ちょこっとした時に便利であったにもかかわらず、A店は地元の子供達に愛される店ではなかった。
それはここの店主であるおばちゃんが原因だった。
・・・・と、私は思う。
子供から見た「ご婦人」にはいろんなタイプがある。
「優しそうなおばちゃん」「綺麗なおばちゃん」「怖そうなおばちゃん」「品のいいおばちゃん」「賢そうなおばちゃん」「厚かましいおばちゃん」・・・。いろいろあるが、”怖くても”一目おいていたり、”品がよさそうでも”あまり近寄りたくなかったりと、「いいおばちゃん」か「悪いおばちゃん」かという、そのどちらなのかということが重要だった。
で、このA店のおばちゃんは「悪いおばちゃん」であった。
ここは住宅街。隣りの町内に小さな商店街があるがそれも自転車で出かけるような所で、買い物に関しては不便なエリア。それをいいことに、買い物に来る子供達に心ない物の売り方をする傾向にあったのだ。
店に入り、小さなスペースで文房具を選ぶ子供。それをジ〜っと縁台みたいなものに座って見張りをする。「それ、可愛いやん」「それにしとき〜な」といった風に品物を勧めるのだが、何故かしら心がこもった感じがしなかった。
「あっ、それもいいやん」
「もうそれにしといたら?」
選んであげているのではない。子供がせっかくお金をもらって自分の好きな物を選ぼうとワクワクしている時間に、さほど時間が経たないうちに割って入って来る。そして適当に何か買わせようとするのだった。
勧める品もどんどん変わる。
「それもええと思うで」
「ほな、これ」
「そやし、もうそれにしときって」
あんたは”いらち”か。
心の中では完全に<この人、信用出来ない>と判断しているにもかかわらず「うるさいなババァ」と言えないのが子供なのである。結局その店で”買わされている”児童は多かった。子供達の間では評判の悪い店だったのだ。
私はえんぴつ削りを買いに行って、100円か200円するパンダの人形にえんぴつ削りがついているという本末転倒なえんぴつ削りを押し付けられて以来、「悪いおばちゃん」と認識した。遠足のオヤツが100円までだった頃に、「それにしとき〜な」と皺の深いいかつい顔で言われたが、家に帰った時にすごく無駄遣いをしてしまったような悲しい気分になったのだ。子供ながらに、私が大人だったらあんな勧め方はしないと腹が立った記憶がある。
最近女性達の間ではアンチエンジングが流行っていて、「40代には見えない」「50代だとは思えない」という表現がよくされている。が、子供からしたら30代も40代も50代もおばちゃんに変わりはない。
そして結局、子供達も「おばちゃん」が綺麗なのかどうかではなく人間性がどうなのかを見ている。
世の中のおばちゃんは「いいおばちゃん」か「悪いおばちゃん」のどちらかしかいないのである。


投稿日:2010年10月23日

2010年10月23日

手術を受けてから3週間とちょっとが過ぎた。傷の長さは15センチぐらいで左胸の輪郭に沿ってあるが、傷自体は思ったほど痛みがない。痛みは術後から身体の内側の方が強く、イメージとしてはブロックのようなザラザラしたコンクリート片が身体の内側から外に向かってゴンゴンと暴れているような、そんな重たさがあって、ジッとしていても痛みで体力を奪われているような感じがしていた。
痛い時は「この痛みがいつか消える」ことが想像出来ないもので、「痛くなくなった時の感じ」がすっかり頭の中からなくなっていたのだが、ようやく「痛くなくなってきたような気がする」感じがしてきた。
いろいろ神経も切っているから、身体の中も怪我をした状態だったのだと思う。が、細かい神経はまた再生するらしく私の体も頑張っているらしい。
そうか。自分の身体は健気に明日に向かって前向きにやっているんだなぁ。
そう思ったら元気が出て来た。
痛いとつい痛みに思考を占領されてしまう。
左を下にして寝るということが痛くて出来なかったが、そぉ〜っと左向きになってみたら前よりも痛みがひいていた。
傷は、こうして緩やかに癒されていくものなのだ。
雑誌や何かの恋愛相談のコーナーで、失恋をした人に「傷ついたこともいつか時が解決してくれます」と言っている言葉が、言葉的には理解出来てももう一つピンと来なかったのだが、今少しずつ身体が楽になってきたことで実感がようやく湧いてきた。
傷ついても、いつか時が解決してくれる。
ベッドで左向きになってみて、うんうんと頷いたのであった。


投稿日:2010年10月22日

2010年10月22日

高校生の時に巫女さんにあこがれて、多分北野天満宮だったと思うのだが、お正月の巫女さんのアルバイトをさせてもらえませんかと書いてハガキを出したことがあったのだ。
別に北野天満宮がバイトを募集していたわけでもない。
「巫女さんになってみたい」という情熱だけで問い合わせたのだ。
しばらく経って神社の方から、申し訳ないのですが巫女さんのアルバイトは募集していないんですといった内容のお返事をもらってガッカリしたが、同時に忙しい大人が高校生の出したハガキに丁寧に返事を送ってくれたことに感動した。
巫女さんのアルバイトはきっとタイミングが合えばあるのだろうが、お正月の時期の気温はいくら暖房器具が用意してあるとはいえ、寒くてしょうがないんじゃないだろうか。神社に行くと「巫女さんになってみたかった」という思いと「やっぱり寒そうで大変だなぁ」という二つの思いで巫女さんを眺めている私なのだ。
多分、今の私なら和服を着た仲居さんの姿なら幾分似合うのではないか。逆にアンナミラーズの制服はもうこの先一生着れないんだろうなぁと思う。
今日は京都では時代祭。紫式部や清少納言、豊臣秀吉に織田信長、有名な人物だけでなく大原女や桂女など働く女性や市民も当時のいでたちで時代祭のコースを歩く。京都の三大祭りの一つと言えば、なんだか厳かな感じがするが要は時代関係なくひとくくりにした仮装大会なのだ。
いつか巫女さんの服を着て、そぉ〜っと時代祭に参加して歩いてみたいな。
そうね。そういう方法もあるわね。
そうして、夢叶い・・・・。
しかしその後不審人物として連行されるのであった。