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投稿日:2009年11月30日

2009年11月30日

少し前、病院にお見舞いのお花を送った。
小学生だったか中学生の時、入院をした友達にお見舞いの花を持って行ったが、それが鉢植えだったので後でエラく母に叱られた思い出がある。病気のお見舞いのお花は「根がつく=病気が根付く」として鉢植えはタブーなのだとその時に知ったのだ。
お見舞いに花を送る人は多い。
私も送って頂いた花にたくさん元気をもらったなぁ・・・と振り返る。
「花」は人にエネルギーを分けてくれる存在なのだそうだ。
見返りを求めずにただただエネルギーを与えてくれる存在なのだそうだ。
「元気になりますように」
そう願いを込めて、お見舞いの花を送れば、きっと花はその気持ちを受け取って、精一杯役目を果たしてくれるのだと思う。
早く元気になりますように。
願いを込めて送ったから。
おまじないが効くように。
お見舞いでなく普段花を買う習慣のない人も、たまに元気をなくした時は花を買って帰るといいかもしれない。
花は自分の持っている力をきっと分けてくれると思うのだ。


投稿日:2009年11月29日

2009年11月29日

子供向けの人気キャラクターのひとつに「きかんしゃトーマス」がある。最近出来たこれまた人気のららぽーと新三郷の中に「トーマスタウン」という屋内型のデーマパークもあって、子供たちの人気の高さが伺えるのだが・・・。
私はこの「きかんしゃトーマス」キャラクターが不気味でコワイのだ。女性はすぐに「可愛い〜!」と口にすると言われる。不気味だったりぶさいくだったりするものも「可愛い」と言ってみたりするし、「ちょっとぶさいくなところがなんとも言えず可愛い!」という感覚は私もわかる。実際に私も「可愛い〜!」を連発する方だと思うのだ。
でもトーマスの場合は、「可愛い!」ではない。
私の基準で言うと「不気味」で止まってしまう。ちょっと不気味なところが可愛い!となるはずなのに、それがならないのだ。
ホワ〜イ、何故。
顔が・・・微妙に怖いのだ。
顔色が灰色、というところもあるかもしれない。
で、中途半端にリアルなおじさん顔をしている。
もっと他になかったのかしら。
子供達はこれを見て、「コワい!」と泣いたりしないのかしら。
子供、特に男の子は電車などの乗り物好きなので、このきかんしゃトーマスの場合体が電車であることに随分救われていると思う。これがもし魚の形をしていて「おさかなトーマス」というキャラクターだったとしたら、子供達は魚嫌いになっていたと思う。「男の子だから泣いてはいけない」というママからの教育もあって、だから男の子は「トーマス」の顔でなく体の部分である電車にだけ焦点を合わせて見ているんじゃないかと個人的には分析する。それでトーマスはギリギリOKラインで成立するキャラクターなんじゃないかと思うのだが・・・・、テーマパークは連日大盛況らしい。
まぁ、なんとかレンジャーなどの戦隊物のキャラクターも派手な昆虫の私からすれば気持ちが悪い着ぐるみでしかないのだが、あぁいうのも子供にすればかっこいい!わけなので、子供というのは案外「面食い」でなく「中身で勝負」だと思って相手を見ているのかもしれない。
子供の「可愛い!」は大人の女の言う「可愛い!」とはまた趣味が違うらしい。
「可愛い」の定義は辞書には最も記しにくい部類のものなのである。


投稿日:2009年11月28日

2009年11月28日

江古田マーキーにてライブ。
いつもなら12月にもライブの予定が入っていたと思う。でも今年はこのライブが今年の私のライブの早くも締めのライブだ。
今年は体調が思わしくない状態でライブに臨む日が何日かあった。逆に考えればそれだけ調子がいい日が出て来たということにもなるが、調子がいい日を得たら次からはやはりそこが自分の基準になって行くので、「ベスト」が一番いいが、そうでなかったら「ベストを尽くす」、そのどちらかの私でライブに臨もうという気持ちで過ごしてきたように思う。
目には見えなくても確かに存在する想いというものが、多分ライブハウスという場所には行き来するわけで、窓のない暗い閉ざされた箱でしかない空間が温度を得るのは、そこしかないのだと思う。
どんな時でも、どんな状況でも、心の温度が少し暖まる瞬間があって、それがあればしばらくの間また心強くやっていける。例えば喫茶店に入ってちょこっと休憩をすることもそう、映画を観にいくのもそう、友達になんてことのないメールを送ったり大好きな人の声が聞きたくなるのもそう。ライブハウスに足を運んでくれるお客さんに対して、そのことをいつも思えるようになりたいと思う。
一緒に出演をした佐藤ひろこちゃんが、「まだはじめてまもないピアノで、決して上手くはないけれど、伝えたい気持ちを大事に、最後にピアノの弾き語りで一曲歌わせて下さい」そんな内容のことを言って最後の一曲をピアノでの弾き語りをした。
聞いていて、ピアノの上手い下手というところに耳がちっとも行っていない私が居た。そして自分の心の温度もなんだかあったまっていた。
たまに、自分の進む道は、歩いている道はこの道でよかったんだろうかと自信をなくす時がある。もっと身の丈に合った何かが他にあるんじゃないだろうかとよそ見をする時がある。でも、多分なのだが、大抵は自分の選んだ今歩いている道で正解なのだと思う。そしてその中で心があったまる瞬間を何かからもらって、そしてまた小さく仕切り直してその道の続きに行くのだ。
自分の道のりが遠く感じるのはまだこの先もあるというしるし。
帰り道、晩秋の夜の空気だ。
冷たく、でも澄んで透き通って、それが何故だか暖かく見えたのだった。


投稿日:2009年11月27日

2009年11月27日

友人から、マイケルジャクソンの映画がすごくよかったとメールをもらったのが昨日、急遽今日はそのマイケルジャクソンの映画を観に行くことにしたのだ。友人のメールがなかったら、気にはなっていても観逃してしまったんじゃないかなと思う。「めちゃくちゃよかった!」と感動した友人のメールで私も心が動いて「やっぱり行かねば!」と朝起きたら映画に行くモードに入っていたのだった。
幻となった2009年のロンドン公演のリハーサル風景を中心に構成された「this is it」。公開が今日までということもあって、都心部の映画館は私の行きたい午後の時間帯は既に売り切れになっていた。少し都心からはずれたとしまえん近くのユナイテッドシアターの2時半の回があったのでネット予約をしたが、映画館に着いた時には「全ての回のチケットは売り切れました」という張り紙がしてあった。
マイケルジャクソンは後年、いろいろスキャンダラスな方面から書かれた疑惑の人だったが、私はそれよりも「スリラー」が流行った頃の個人的な思い出の方が強く印象に残っている。MTVでの映像に釘付けになったことや、当時同じくしてヒットチャートをにぎわせていた楽曲達、カフェバーでスピーカーから流れてきたbose独特のあの音像、バリ島に旅行に行った時に道端でカセットでアルバムのコピーが売られていてお土産にわんさか買って帰ったこと、女子大生だった頃の私のキュンとする景色がよみがえる。
50歳とは思えないハードな身のこなしでリハーサルに真摯に向き合うマイケルジャクソン。全力で目の前の自分のやるべきことに身を投じている姿は、エンターテイナーとして心身共に本当に手の届かない高い所にいる人なんだと感じさせられる。遠い存在の人であることを確認しつつも、人として尊敬する気持ちが芽生え、映画を観すすめるうちに何故かしら見ている自分の心がどんどん洗われていった。
よく「これが出来たら死んでもいい」と口にする人が居る。マイケルはそうは思っていなかったと思う。ただただ目の前にある自分のやるべきことについて、いつも100%で臨んでいたのだろう。神聖な人のオーラがあった。
コンサートは幻となってしまった。
だがとても価値のある映画だったと思う。
それぞれの人の心にある邪心のない空間に、語りかける映画だったような気がする。もしかしたらそれはロンドン公演の成功よりも人々の心を正直にさせる力があったかもしれない。
人生は切ない。誰かの評伝を読んでもいつも同じ切なさが胸に沸いて来る。でもたくさんの出会いがある。そしてその人にしかないたった一つの人生を生きている。
スーパースターでなくとも、同じ志は目指せる。生きている間、私達は繰り返し澱みながらもまた心の再生をして、自分の道を歩いていかなきゃいけないなと思った。
勧めてくれた友人に感謝。私も深く感動をし感銘を受けた映画だった。


投稿日:2009年11月26日

2009年11月26日

先週から左目の瞼がかぶれてかゆいのだ。
最近はあまり化粧をしなくなったので、たまに化粧をすると次の日に瞼がかぶれるといったことがあって、今回もそのパターンだった。瞼のかぶれはここ1〜2年のこと。それまでは「めばちこ」ぐらいにしかならなかったので、体質も変わって来たんだろう。
以前「めばちこ」と言ったら人に笑われたことがある。「めばちこ」は標準語ではないらしい。正しくは「ものもらい」「麦粒腫」なのだそうだが、会話の中ではまず「麦粒腫」とは私は言わない。で、「ものもらい」を会話単語にしたものが「めばちこ」だと思っていたのだが、「パーマをあてる」と言ったら「あてる??」と通じなかった時と同じように「めばちこ」は聞き慣れない人にしてみれば不思議な響きの方言になるみたいなのだ。
じゃ、他の地域ではどういう呼ばれ方をしているんだろう。調べてみたら北海道では「めっぱ」なのだそうだ。東北では「ばか」と呼ぶ地域があるらしい。東海地方になると「めんぼ」と呼ぶ人が多く、これがだんだん西に向かって行けば「めいぼ」になっていくみたいだ。長野では「めかご」。う〜む。こう聞くとイナゴの佃煮に似た珍味の名前かなと思えてくるのだ。
しかしもっと想像がつかなかったのは、「おきゃくさん」と呼ぶ佐賀県、「おひめさん」と呼んでいる熊本だ。沖縄では「おともだち」と呼ぶ人が約1割いるそうなので、西に進んで行くごとにウエルカムな名前になっているのが可笑しいのだ。
今のかぶれは「ものもらい」ではなくおそらく「眼瞼炎」だろう。ちょっと調べてみたが、「眼瞼炎」には方言がないみたいだ。というよりも、「ものもらい」のように方言がついているケースの方がめずらしいと思う。
しかしなぁ。
「おきゃくさん」という言い方は、女性語でいうところの「生理」だったと思うのだが・・・。
どう言い分けているのか、イントネーションなのか、わからない方言なのである。


投稿日:2009年11月25日

2009年11月25日

先日通販で頼んでいた毛布が届いた。
ずっとウチは毛布がなかったのだ。毎年冬はダンボで暖を取っていたので、あまり不便を感じていなかったのだと思う。
買わなかった理由はもうひとつ、春になったら片付ける場所を押し入れに確保しなくちゃならないという点だった。押し入れの下の方は既にいっぱいで、三脚を出して天井近くにスペースを作らないといけないあのちょっとしたことが「面倒くさい!」のだ。一年のうちのたった一日のそのうちの10分程、収納に頭を悩ませるだけなのに、それだったら3ヶ月寒い方がいい。そんな感じで冬を越してきたのだったが・・・.
去年買ったフカフカタイプの敷きパッドを押し入れから出して先日敷いたら、めずらしくそれだけでやけに寝る時に幸せを感じた。それになんだかグッスリ眠れたような気もする。やっぱり冬は上下共にフカフカに挟まれて眠るのが、いいんじゃないかと初めて思えるようになったのだ。
羽毛布団だったら、布団の上にかけるのがいいとされる毛布。
だがやっぱり毛布は布団の下に敷きたい。
布団から出るのがだんだんイヤになってくるこの季節。
と、同時にあったかい布団に潜り込む瞬間がささやかな幸せなのだ。


投稿日:2009年11月24日

2009年11月24日

タリランランラン、ララランランラン~♪
寒い季節になってくると灯油の移動販売車の音楽がどこからともなく聞こえて来る。
この近辺は「イッツ・ア・スモール・ワールド」の車と「北風小僧のかんたろう」の2台が巡回しているようで、近くのお家でも頼んでいるところがあるらしい。配達の車が音楽を流しながら止まっているのを見たことがある。ウチはもう灯油を使わなくなったのでお世話になっていないが、石油ファンヒーターを使っていた時にはやっぱりこうした巡回の配達車から灯油を買っていた。
私が子供の頃は、お米やジュースも配達してもらっていたのだ。台所の裏にはガラス瓶のジュースケースとビールケースがあって、それは私の世代にとって懐かしい景色の一つだ。当時はお米屋さんが配達をしてくれるのがあたりまえのことだと思っていたから、まさかそれから後にスーパーでこれらの品物を買うなんてことに変わって行くとは予想もしなかった。
灯油を使用する家が少しずつ減っていけば、冬の巡回車もなくなって行くのかもしれない。
別に自分の家で買うことはなくても、あの音楽が聞こえて来ると「あぁ、そういえばもう冬なんだなぁ」という風に部屋の中で思っていた。親しみを覚えていたのでなくなったらやっぱり寂しくなると思う。
<買えないけれど応援している>というのは、本当は応援していることにはならないかもしれない。
だが、私みたいな気持ちであの音楽を耳にしている人は居ると思うのだ。
配達の車の人には伝わらないだろうけれど。
そして自分にもきっとそういう存在の人が居るんだろうなぁと思ったりもした。
そして
それはみんなに言えることなんだと思う。
お仕事ごくろうさま。
耳を澄ませば聞こえてくるかもしれない。
小さなエールを、人は送り、送り合い、沢山の想いを自分もきっと受け取っているのだ。


投稿日:2009年11月23日

2009年11月23日

クリスマスイルミネーションの飾りつけをするお宅が増えた。
あたたかな電飾が家の周りを適度に飾ってある景色は、寒い夜道をなごませてくれる存在だ。個人的な好みとしては、ワンポイントで飾ってある程度のそんなに手間をかけていないお家が素敵だなぁと思う。
いいなぁ。
今までは眺めるだけでよかったイルミネーション。だが、今年はちょこっと「私ん家もやってみたいなぁ」と思うようになってきた。
ちょこっとでいいのだ。
大きくなったオリーブの木に沿わせてみる、だとか。
雨戸のつるバララインに沿わせてみる、だとか。
しかし屋外のイルミネーション設置はやはり男手が必要なのだ。三脚を立てても、私の身長では若干上の方が届かない状態、さすがに男友達に電話をしてクリスマスの飾り付けを手伝ってよとは頼めない。惜しいなぁ、飾り付けをしたら素敵になりそうなのになぁと思いながら家の屋根の下あたりをいつもジっと見つめている。私の頭ん中ではチカチカとイルミネーションが瞬いているのだった。
立派な飾り付けのお家には、休日返上で三脚に乗って頑張ったお父さんの存在がある。
現代のサンタさんは今やクリスマスの飾りつけの頃から忙しくなったのである。


投稿日:2009年11月22日

2009年11月22日

今年は温泉に行くどころか、お出かけさえしない秋になってしまった。
出好きの私が出かけない時はそうとう具合が悪い時で、出かけなかったということは出かけられないぐらい調子が悪かったのだと思う。東京都の美術館を制覇する野望も消え、ワンちゃんと泊まれる旅行ブックも眺めるだけで終わり、すぐ近くの下北にも吉祥寺にも全然行かなくなった。ユザワヤ新宿店が出来たのも知っているのに、まだ行っていないだなんて自分でも信じられない。
このまま終わっちゃうの。秋。
いやだ。
きっとこのままでは後悔する。
そう思ったら急に悲しくなってきて、今日はどこかに出かけたい!と久しぶりに出かけることにしたのだった。
私の「どこかに出かける」は、本当に「どこかに出かける」その「どこ」が決まっていないことが多い。本日も着替えをしながら「どこに行こう」と考えながら家では行き先が決まらなかったので、いつものように家を出て、とりあえずバイクに乗ってみる。
なんとなく「右」「左」と適当に向かって、あぁ私は「東高円寺」に向かっているのだわと理解する。
駅に行けば行きたいところが見つかることが多いので、なおも行き先不明のままバイクでとりあえず駅に向かって地下鉄に乗ることにしたのだった。
地下鉄丸の内線というのは、新宿や銀座や東京やらを回って最後に池袋に着くちょっとしたハトバス観光っぽい電車だ。大きくて個性的な街を巡る路線なので、私は密かに東京見物電車呼んでいる。これに乗ったらどこかで降りたくなるだろう。私は未だに新鮮なおのぼりさんなのだ。
「気になった駅で降りてみよう」
「西新宿」を過ぎ、「新宿」に着いたが今日はアンテナが立たなかった。
「新宿三丁目」駅。
ここも伊勢丹デパートなど様々なショップがあるので、降りれば街を味わえる。が、本日はここも通過。
「四谷」を過ぎて「赤坂見附」に着く。
この駅で乗り換えをするとまた行き先の選択肢が増えるので、元気度が高かった場合はここで降りていたんじゃなかろうか。しかし、今日はもうちょっと座っていたいと思い、この駅も通過する。
ねぇ、どこに行くつもり。
どこで降りるつもり。
「国会議事堂」「霞ヶ関」を過ぎ、「銀座」でも降りることはなかった。
このまま降りないのかしら。
そうだ。
東京駅ってつくばエクスプレスに乗れるんじゃなかったっけ。
実際は全くの間違いなのだが、その時は急にそんなことを思い、そうしたら乗り換えて早い電車に乗りたくなってきたのだった。
「東京~。東京~」
おります。おります。
改札を出たらそこはクリスマスイルミネーションで飾られた新丸の内ビルのすぐそばだった。
わぁ、綺麗。
その瞬間つくばエクスプレスのことはすっかり忘れ、新丸の内ビルに吸い込まれていた。なんといい加減。目の前のものに心を奪われやすいのであろう。
綺麗な飾り付けを見ながら、なんとなく人の流れに着いて行き・・・。
きっとここから楽しい時間となるはずだったのだが、この2ヶ月、ほぼ自宅療養生活を送ってきた。急に街に出てウロウロ出来る体力がまだないという計算をしていなかったので、しばらくしたら急に電池が着れるようにして身体がグッタリしてきたのだった。
ゲームのライフがなくなるのと同じように急に体力ってなくなるものなんだ。
なんだかしんどい。
とてもしんどい。
結局お出かけはそこで終わり、フラフラになりながらなんとか家に帰ったのだった。
行きはよいよい、帰りはしょぼい〜♪
何故、こんな無駄な行動に出てしまうんだろう。
でも、ま、いつもこんなもんだわ。
グッタリしつつも、「今年も秋にお出かけをした」という充実感でベッドに横たわったのであった。


投稿日:2009年11月21日

2009年11月21日

今はどこに行っても、コスメコーナーにネイルチップが置いてある。ネイルアートやネイルケアといったものがこんなに定着するとは思っていなかったのだ。
私は「つけ爪」と呼んでいる。が、これらのことを「ネイルチップ」というらしい。コスメコーナーは男性は立ち寄らないエリア、なので店頭での商品棚の変化にはあまり実感がないとは思うのだが、少なくとも私が知る限り10年前はこんな物は店にはなかった。今このつけ爪を置いてあるスペースは何が置いてあった場所だろう??思い出そうとするが、それも思い出せないのだった。
ネイルサロンにしたって、出来た頃私はすぐにブームは過ぎると思っていた。だが、前を通りがかって中を覗いた時にはお客さんがたいてい座っている。入りにくそうな店舗でもお客さんはやって来るみたいなので、今やすっかり、爪はお肌の手入れと同じぐらい気合いの入る部位となったみたいなのである。
私は子供の頃からピアノを弾いていたことから爪が少しでも伸びるとうっとおしくてしょうがなくなるのだ。短いのに慣れているせいで、別に楽器をさわるわけでなくとも爪の白い部分が5ミリ伸びた時点で、日常生活の中で不具合が起こる。だから可愛らしいネイルチップ達を店先で見かけて「一度ぐらいやってみたいな」と興味を持ったとしても、まず半日も持たないということが最初からわかっているのだ。
このつけ爪、接着シールやボンドみたいなものでひっつけるらしい。しかも自分のつめのサイズに合わせて微調整してカットしてからつけるのだそうだ。こんな面倒臭いことをして余計なものをひっつけて、それで外に行って買い物をしたり携帯を打ったり出来るだなんて・・・・。これは10センチヒールで走るのと同様高度な女性芸の一つだなと感心もする。
世の若い女性達はこれを指の先っちょに器用につけている。
何の為に。
やっぱり綺麗になりたいからなのである。
じゃ、なんでこんな恐竜みたいな爪にしなくちゃならないのか。
それは世の男性が「綺麗な爪の女性がいい」というような風潮を撒いたからなのだ。それで、女性達は綺麗になりたい一心でさじ加減がわからなくなり、現代になってついにこんな飴細工みたいなものを指先につけるという方向に走ってしまった。
しかしこの爪では、男子供の大好きなハンバーグはこねられない。
途中で爪は取れ、つけ爪は幸いミンチの中から発見出来たとしても、接着シールの破片はそのまま恐らくハンバーグの種に混ざったままになる。料理が上手い女性がいいだとか若い女性がいいだとか、長い髪がいいだとか、指がシュッと長い女性がいいだとか、好き勝手なことを男性達が言ってきたおかげで、女性はやりすぎて香水臭い女になったり、化粧を落とした顔を見せられなくなったり、恐竜化したりしてしまったのだ。
爪は普通の長さでよし。
女性はなんでもやりすぎる。
男性はうかつに理想の女性像について語ってはいけないのである。