今は週に4日、生徒さんに音楽を教えている。
私はよくしゃべるようになった。
こんなにおしゃべりだったかしら。
20代の頃は自分の意見を言葉にまとめることが出来なかった。胸の内には確かにいろんな自分なりの考えがあったのだが、不意に「あなたはどう思う?」「あなたの意見は?」と尋ねられた瞬間に胸の中にあった微妙な色で構成されていた色鉛筆達が石のように形を変えてしまって、答えられる何かがあるはずなのに上手く言葉にすることが出来なくなってしまうのだった。
時間切れ。
そして私は意見のない人として、もうその場は次へと進んでいるのだった。
そこで私はコンプレックスに覆われる。
考えていることはいっぱいあるのに、どうして肝心な時にすぐに言葉に出来ないんだろう。同年代の人でもすぐに言葉に出来る人達はいる。じゃぁやっぱり私はあまり深く物事を考えることが出来ていないのかもしれないなぁ。そんな風に思うと、意見を求められたり何かを説明しなくちゃいけない機会にビクビクするようになり、余計に上手く言葉に出来ない状態は強くなっていったのだった。
自分を救ってくれたのは「書くこと」だった。
すぐに言えなかったことも時間をかけて整理をすれば、私にも自分の意見が形に出来るんだと思った。歌詞や文章は”すぐに”まとめられない私にとっての救いの方法、胸の中にある”忘れないように形に出来たらいいな”と思う事柄を形にすることはどんないいことがあるか。それは時々、もやもやした雲がかかっていたものを取り払って空を澄ませてくれる効果があった。そしてまた自分の目の前にある道が少しだけクリアになって明るい気分で歩ける助けとなってくれたのだった。
生徒さんたちと接していると、昔の自分が重なって見えることがある。
自分の思っていることを上手く言葉にすることが出来ないとたまに打ち明けられる。
上手く話せるようになるのがいいのか。
いや、そうは思わない。
そのことにこだわらない状態に自分をまた戻せることが一番いいのだと私は思う。
自分を変えるのではなく、気を取り直してまたやるだけ。
というのが私は一番いい道だと思っている。
先生の日の私はおしゃべりだが、大人数のミュージシャン仲間の中では相変わらず気配がない。急に何か尋ねられたらやっぱり上手く答えられないうちに時間切れになっている。
ちょこっと昔のようにコンプレックスに覆われ・・。
まぁいっかと思う。
自分が進行をしなくては物事が進まない状況になったら、人はモードが変わる。聞き役の立場にいる人間が不意にマイクを渡したら、大抵の人は戸惑うただそれだけのことだ。
先生の仕事。
何かを教えるということより大事なのは、その人の持つ不要なコンプレックスという荷物を、ここ一番という時に下ろしてあげることが出来るかどうかなのかもしれない。
何かを学びたい力はそれだけで生き生きと枝を伸ばして行ってくれるのである。