水がないという噂を聞いてはいたが、本当に水が売っていないので驚いているのだ。
こんなところに自動販売機があって誰か買う人がいるのかなぁと思うような、裏道の目立たない場所にある販売機も水だけが売り切れになっていて、気にしてみながら歩いてみたら、見事に自動販売機の水は全て売り切れになっていた。
今回の原発事故の件で、水の安全性について言われるようになってから水が店から消えたが、意外なのは「水を買い占める人の人間性を疑う」というような意見が思ったより多いことだ。まるで水を買い占めて行く人のことを、「クモの糸」というお話の中にある自分一人だけが助かることを考えている主人公のように自分勝手な人間と見ているような感じがするが、私は他人のそういう行為があまり気にならない。
だってこの人達は、恐らく普段から自分や自分の家族の健康を考えて品物を選んでいるわけで、水が安全ではないと知れば安全な水を同じように求めただけのことなのではないか。何か企みを持って買い占めているわけでもないのに、水に手を伸ばせば知らない誰かの目が光っていて”あなた、買い占めする気じゃないでしょうね”というような視線が飛んでいることの方が、私はギスギスしているというか歪んだものがあるように思えてならない。
震災が起きてから、変に罪悪感を持って過ごしている人が多い気がする。そして罪悪感を持って過ごしている人ほど同じように他人も遠慮しながら過ごすことを求めていて、なんだかおかしな感じがすることがある。
今までにも心痛める事件や出来事がたくさんあったはずなのに、何故今回の震災についてだけみんな自粛し優しくなろうとするのだろう。風評被害に遭った地域の食べ物を食べてみせ「私は食べます」「とても美味しいですよ」と言っている人達と、「お国の為に命を捧げることを幸せに思います」と言って死んで行った特攻隊の人達が私にはダブって見える。結局は風評被害もこんな歪みの中から生まれたものなんじゃないのかと私は思うのだ。
テレビでは「決して一人じゃない。みんなで力を合わせて」と言っている。
震災が起きるまでにだって、日本の中にまた一人一人の人生の中に地獄はたくさんあったはずなのだ。それまでは聞かなかった「優しさ」。本当にそんな簡単にそんな言葉を使っていいのだろうか。その優しさはいつ生まれたものなのか。どこまで信用していいのだろうか。
時々からっぽな気持ちで人間を見ている私が居るのだ。