渋谷DUOにリクオくんのライブを観に行った。
リクオくんのライブを初めて観たのは今から14〜15年位前、その当時もピアノ一本で、それからアコーディオンも弾いていたがそのライブを観て圧倒されたのを覚えている。
水の中を自由に泳ぐ魚みたいだった。
すごい。
すごいというのが、私の印象だった。
だが、今私がリクオくんのライブについて一言で何か言葉を見つけるとしたら、それは「すごい」ではない。
音楽的に圧倒される部分は変わらない。相変わらずピアノも歌も、自在に水の中を泳ぐ魚のように自由だ。それからちょっといやらしい言い方になるが、その技術は同業の厳しい耳で聴いても、ピッチプレイ共に本当に才能を感じる。
でも違う。メインはそこには全くない。そんなにすごい才能の部分が、リクオくんのライブではただのアイテムとなり、とにかく歌の中の言葉に直球で胸にガツンとやられてしまう。今のリクオくんのライブの「すごくいい」と思うところだ。
男女共、平等に揺さぶる気持ちを彼は歌っている。
大人になると、なくしてしまうものが多くなると言われているが、私はむしろその逆だと思う。守らなければいけないもの、責任や捨てられないものが一向に整理出来ないまま増える一方で、多くを抱えて沈みそうになっているのが大人の真実なんじゃないかと思っている。
矛盾や辻褄が合う日なんて、もうやって来ないのだ。整理出来る日も来ない。それを認めて、それらに囲まれながらも、今心をどう解放していこうかと考えて行かなければ、いつまでたっても本当の自分に戻れる時間や場所なんて得られない。
その矛盾をリクオくんはステージの上で、正直に歌っている。勇気を持って言葉に代えていると思う。ある曲では、ずっと大事にしたい女性へ捧げる愛を歌い。そしてまたある曲では、理性で止められることが出来なくなってしまったもう一つの愛も歌う。人生観が伺える曲もある。孤独な時間を歌う歌もある。君が居ないとダメだと弱音を吐いたかと思えば、別の曲では頼りがいのある男性的な一面もまた見える。
それらは作品。だから、リクオくんの私生活とリンクさせる必要は別にない。それぞれのストーリーも繋がらなくていい。だが私にはそれらを通して聴いた時に、一人の人間がそこに歌を通して立っている気がした。一人の人間として繋がっている気がした。明るい感じで進んで行くライブでありながら、私にはドキっとする程リアルだった。
今日はフルサイズのライブ。
だからたっぷりとそれが感じられた。
実体のない大人というカテゴリーに、自分を合わせようとして、そして大人は勝手に自分で息を切らしている。
去年、リクオくんのライブを観て、そして私はもう一度”自由に”歌を歌いたいという夢を持った。自分が次にやりたいと思っていたのは、矛盾や辻褄の合わない中のリアルな大人、女側からの歌だったからだ。だから今は、女性の持つ感情の起伏をもう少し表現出来るだけの声を取り戻したい。そこを見据えて、あれから私は過ごしている。
帰り道、真っ直ぐ帰るのが惜しくなったので、「今日、今からスタジオ空いていますか」と、電話をしていた。
大人は大切なものをなくしたのではない。
大切なものを抱え過ぎているのである。