今日は「東京下町食い倒れツアー」と題して、会社のTちゃんとお仕事でお世話になった浅草ッ子のSさんKさん、それから代々浅草という浅草ど真ん中で育ち、生粋の浅草人のHさんの5人で、Hさんに案内人となってもらって地元浅草を紹介してもらった。
浅草には度々私は探検に来ている。浅草寺にはなやしき、その場で焼いて売っているせんべいを買って食べ歩いたり、裏道や小道にバス巡りもした。隅田川から船に乗って川を下ったりもしたこともあったりで、一応浅草の簡単な地理は頭には入っているが、それでも浅草は知らない。
京都の場合、京都に行ったという人の話を聞くと、接点はたいてい「お寺」か「嵐山」せいぜい「天一のラーメン」となり、大阪となると必ず道頓堀が話題となるが、私は京都なら上賀茂近辺や北山通りや特に何もない紫明通りに連れていきたい。そして大阪だったら、恐怖の阪神高速環状線に案内して、そのままブーンと南港まで行って「これが大阪です!」高速道路を背に海を見せたい。まぁ、ただそれらは自分の好きな所でしかないと言われてしまえばそれでおしまいなのだが。
今日の浅草巡りは美味しい物にもたくさん出会えたが、昔はこんな景色だったんだよということを聞かせてもらいながら歩く歴史探訪の旅となった。
ガイドブックにも載っていた甘味屋さん、浅草寺の中の小さな池に架かる橋、何気なく通り過ぎてしまう塀にさえも何かしらのエピソードがある。Hさんは浅草寺幼稚園に通っていたそうで、ここが日常の遊び場だったのだそうだ。「あそこが入り口でね」と、幼稚園には見えないアルミの扉を指さす。
途中のべっこう店ではみやげ物屋のおかみさんが、「あら、この間お店に行ったのに」とHさんに声を掛ける。Hさんはこの辺りのやんちゃ坊主だったんだろう。長身の紳士なのに”ヒデオちゃん!”と呼ばれているのがおかしかった。
子供の頃には、瓦割りの見世物などが街頭であったようで、この辺りの子供達はお客さんに混じって見物をするだけじゃなく、「こんな子供でも瓦が割れます」という演者としておこづかいをもらって見世物の”瓦を割る子供”として出たりもしたのだそうだ。私の日常や育った町にはない独特の世界の中で、それでもやっぱり子供達はその中で目一杯楽しいことを見つけて、日々は冒険だった。
映画が栄えていた頃の映画館通りのこと、大衆演劇場のポスターにストリップ劇場の看板。吉原が焼け野原になった時の様子やおじいさんから伝え聞いたという昔話。
どこかに出掛けた時に、美しい景色に感動をして写真に収めたら、自分の感じ方といつも違ったものになっている。最高のカメラ日和だったのに、結局どの写真も家に帰って見たら、目で見て感じたものをうまく撮れたのは一枚もなかった。Hさんの頭の中に広がる映像を私達の頭の中にも映して、それらの風景を感じる。
とても写真には撮れない浅草だ。
整備され観光客が歩く一本一本の道に過去の風景がある。浅草にあるように、それは今住んでいる家の辺りにも。
私の実家がある高槻の家のあの辺は、住宅地になる前は田んぼか沼だったと聞いている。それ以上のことを知っている人が居たら、話を聞かせてもらいたいな。
浅草を巡りながら、私は同時に何のつながりもない自分の育った風景を重ねていたのだった。