小学校の音楽の合奏で、憧れながら一度も触れることなくして終わった楽器があった。ビブラフォンだ。
ビブラフォンとは、乱暴に言えばおもちゃ屋さんで売っているような鉄琴のデカいやつだ。マレットというバチを持って叩く楽器で、鉄琴にはないダンパーペダルがついている。これを踏むと音が伸び、「キーン、ホワワ〜〜ン」と、優し〜い音がするのだ。似た楽器ではマリンバという鍵盤が木のものがあるが、後に音が”ホワワ〜ン”と残るこの”ホワワ〜ン”にクラクラして、私が恋したのは、マリンバでなくこのビブラフォンだった。
一度でいいから触ってみたかった。
小学校の音楽の授業であった合奏の持ち楽器は、先生が担当楽器を決めていたので、毎年「今年こそは選ばれますように」と願ったが、とうとう私にはビブラフォンの役は回ってはこなかった。
お転婆な私だったが、「触ってみたい!」と言えなかった。遠目で見ていただけのまぶしい楽器だった。
その楽器を持っている人が居る。
パーカッショニストの三沢泉ちゃんだ。
去年、あるイベントで偶然彼女とバッタリ会ったのだが、そこで彼女はあの憧れの楽器、ビブラフォンを演奏していたのだった。それまでコンガやボンゴ等のパーカッションを前にしている姿しか私は見たことがなかったが、その日はなんとビブラフォンを真ん中に置いていたのだ。
「キーン、ホワワ〜〜ン」
あ、あらら・・。
それだけで吸い寄せられて行く。
「キーン、ホワワ〜〜ン」
<うふふ。こっちよ>
他の楽器を聴いていても、大音量でもないあのビブラフォンが鳴ると、ハッとそっちに心が行ってしまう。ビブラフォンは小悪魔系の楽器。それを自在に彼女は操っていたのであった。
今日はその三沢泉ちゃんのソロライブを千駄ヶ谷に観に行ってきた。泉ちゃんは、相馬裕子ちゃんのライブや西川峰子さんのレコーディングで一緒にさせてもらったが、ミュージシャンとしてのその演奏とセンスは超一流だ。ミュージシャンとしての顔は知っていたが、今日はソロだけでなくイベント全体を彼女が主催しているということで、そういう精力的な一面にも惹かれて出掛けたのだった。
パーカッショニストのソロって一体どんなライブ。ステージにセットされていたのは、あの魅惑のビブラフォンとそれからいくつかの小物パーカッション。横のテーブルにはおもちゃや小物が飾ってあって、女の子の部屋の様なディスプレイがされていた。
足元にはエフェクターのようなメカ。
これらを目にしても、始まるまでそれがどんなステージになるのかは私には全く想像がつかなかったのだった。
これを・・・・何と説明をすればいいのか。
初めて観た泉ちゃんのパーカッションソロワークは、まさしく「音楽」。音を楽しむと書いて音楽と読む、そのものだった。
そこにセットされていたもの全てを使って、一つ一つの音を出してお客さんに聴かせながら、同時にそれを足元のメカで録音をし、どんどん音を重ねて最後にはパーカッションアンサンブルの美しいサウンドに仕上げていく。テーブルにあったおもちゃも雑貨も、そこにあった全部が楽器になることを私は目の前で観ることとなった。
ミュージシャンサイドとはまた別の顔。
対極にあると言っていい程、違ったアプローチだ。
リズムを一切刻まずに、でも出来上がったアンサンブルは、リズミックな作品になっていて本当に感動をした。
「これで、終わりです!」
照れたように泉ちゃんの挨拶があった。
釘付けになっていたので、「もう終わり?」という位時間が早く感じた。
ステージが終われば会場が明るくなるというのは、もう何度となく見てきたライブコンサートでの会場の風景だ。
今日は違った空間。
どんな空間。
私はおもちゃのチャチャチャの曲の中に居た。
なのに朝になっておもちゃ達が帰ってしまった。
そんな気分だ。
音楽という夢の中に、さっき自分は確かに居た。
違ったのかな。
片付いていくステージを見てみた。
魔法は解け、どれもただの楽器とおもちゃに戻っていたのだった。
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2007年01月30日
今日はデモ作りの仕上げの日。
2階の人が引っ越してきてから、こちらの暮らしが変わったことは、部屋での作業の音量と時間を気にするようになったということなのだ。
内見に人がやってきていた時には、「アァアア〜」「ララリラ〜」と、声を出したりスピーカーの音をちょっと大きめにし、ダンボにも一緒に頑張ってもらって、この家から出る最大迷惑音をアピールしていた。
”ここの家は、こういうことをしますのでよろしく”と最初に断りをいれておかないと、あとで文句を言われるのはたまらん。
が、内見者が住人になった時、このアピールは終わりになり、コソコソモードへと変わるのだった。
「あの家は楽器を使っています」
そう報告をされると、今度は私が住人として危うい立場になる。場合によっては、新しいお部屋を探しにどこかの物件の内見者となることだってあるのだ。ところてんを押し出すように、2階に住人がきて私が押し出しとなる。トランプゲームでも意外な展開があるように、私の暮らしにだって、いつ波乱が起こるかわからない。だいたい、私は前の家で突然の押し出しとなった。
まず、外に2階の人のバイクと自転車の有無を確認する。両方ない日が2階が留守の日。今のうちにやろう。昼間っから雨戸を閉めて「ア〜アァアアア〜ッ」。
録音作業で声を出す時はマイクに他の音が乗らないようにと、オケをヘッドフォンで聴く。なので、私の耳には全部の音が鳴っているのだが、私の家から漏れるのは私の歌声だけということになる。これはちょっと私自身が恥ずかしい。歌詞が全部ついていても、一部だけ歌詞がある時も、最初からアカペラで歌うと決めて歌うものとそうでないものは、伴奏がないとどうも滑稽になるのだ。
今日は何度か外を見たが、自転車が停まっていた。昼も、午後も、夕方も。
だが仕上げは今日しかない。
「ラーリラー、ワウッ!」
「ウゥウウウ〜、ラーブッ!」
「ワォーーー、チャーンス!」
私んちだけのことじゃない。音楽仲間はだいたいいつもこんな感じで家でデモを作っている。音楽の仕事は華やかでもなんでもなく、滑稽なことの連続なのである。
2007年01月29日
胃腸炎は胃が少し楽になったかと思ったら腸に来る。
正月の時もそうだった。
上から下へ、自分の内蔵が動いているということを知る貴重な体験学習にもなっているが、何せトイレがすぐ近くにないといけない状況なので、家から出られないのだ。
お腹が痛い。
ヘルプ、ミー。
言ったところで何も変化は起こらない。部屋の空気が動いたのは、「ツーショットダイヤルですか」と、知らん女子と話したい男性が間違ってウチに電話を掛けて来た時ぐらいなのである。
こんな時に。
助けてくれるのでないのなら、そっとしておいてくれ。腹が立って電話線を抜いたのだ。
飲めば出る。
何かちょっとでも食べると出る。
以前、某男性アーティストが”腸内洗浄”にハマっていて、中国まで”腸内洗浄”をしに行ったと言っておられた。40分位の時間をかけて肛門からお湯を入れて溜まった老廃物を一気に排出させるのだと、そのしくみについて教えてもらったことがあったが、とにかくクセになる気持ち良さなのだそうだ。
ウイルスも一気に排出出来るのかなぁと横になりながら考える。
しんどい時は、何かそれがいいかもしれないと聞くと、何故か「それをやってみたい」と、トライしたい気持ちが強くなるのだ。
自宅で腸内洗浄ってどうすればいいのか。
お湯はある。
だが、適当なサイズのチューブがない。
洗濯機のホースは太過ぎ。
ストローは硬そう。
今日もイタチと犬と私はほぼ寝て一日を過ごした。
「君等元気なのに、よく毎日同じ場所でこんなに寝ていられるな」と、寝ながらイタチと犬にちょっとあきれたのであった。
2007年01月28日
またもや胃腸炎。
病気の時は、思い切って何もせずに休むのがいい。
私が寝ていると、イタチも犬もずっと寝ていた。
2007年スゴロクは前に進んで止まったのか、
それとも正月のマスに戻されたのか。
本日、「一回休み」の日なのだ。
2007年01月27日
先日、遊びに行ったO氏の家にカメラを忘れてきてしまった。
それは一昨日のこと。携帯に着信履歴が残っていたので、掛け直すと電話を受けた奥さんのNさんが、「うふふ」と、電話口で笑っている。
「?」
「うふふ、まだわからない?」
「?」
「カメラ、忘れていったのよ」
「あ”ーーー。ず、ずびばぜん・・・」
この様に私はよく、自分が元となる二次災害を他人に与えている。
またやってしまった。
さて、ではこの後いかにして迷惑を最小に抑えられるか。受話器を持ったまま脳みそ全エリアを使って考える。
1、家に取りに行く。
2、宅配着払いをお願いする。
3、そのまま預かっておいてもらう。
4、ドライブがてら持って来てよと言う。
どれだ、一番いいのは。
1は自宅作業者にとっては、仕事のリズムが断ちきられることになるので迷惑。2は梱包など面倒な作業を頼むことになってこれまた迷惑。3は自分が使うのでないと困る。4はありえない。
結局Nさんが外出をする日に、最寄りの駅で受け取るのが一番迷惑量が少ないと判断、そして今日は青山一丁目駅に用があるということで、Nさんに忘れたカメラを持って来てもらうことをお願いしたのだった。
私はたまに他人に気を使う人間だと言われることがあるが、それは今までの自分が与えた膨大な迷惑量が影響している。
またやった。
まただわ。
またなんで。
と、いうことが非常に多い。
「美味しいトンカツ屋さんがこの辺にあるから案内しますよ!」と言って、道に迷ったり、「じゃぁ私が小皿に取り分けますよ!」と名乗り出て皿をひっくり返したり、ならば自分が率先して何かをしない方がいいなと思えば、このように忘れ物をしたりしている。
だから、何かあった時にはまず”このあとの迷惑量をいかにして少なくしようか”に脳みそが反射的に行き、それが人の目にはあたふたと人に気を使っているように見えるらしい。
違う。
ただ、てんぱっているのだ。
今日は待合せに1分も遅れるな。
スムーズに行こう。
気を引締めて出たので、20分前に着いた。しかし、今日は実は朝起きた時からちょっと調子が悪いのだ。メマイと吐き気がしていて、すっきりしない。
<また胃腸炎?>
無事、Nさんと待合せがうまく行き、「で、私がカメラを忘れたらシャレにならないわね、ふふ」と言いつつ、カメラを頂き、短いお茶タイムをして駅でNさんと別れたのであった。
帰り道、やはり具合が悪い。
なんだろう、この気持ち悪さは。
代々木上原という乗り継ぎの駅のホームで、ベンチで休んでいたが、急に吐き気が襲ってきた。
ゲー。
ホームにゲロを吐いてしまった。
よく道端や駅に嘔吐物が落ちていて、「何なの!誰よこれ!」とムっとしたりするが、今日初めてわかった。片付けられるだけの元気があるのなら、まずゲロを吐くまでには行かないのだ。私も片付けようと思ったが、とてもそんな調子でなく、電車にそのあと乗って帰るのがやっとだった。
私が見捨てたこれらは、誰かが不快な気分で片付けるのだ。
ごめんなさい。
犬も歩けば棒に当たる。
お犬さまは素晴らしいです。
自分は外に出れば、毎回何かしらの迷惑及び失敗をしているのである。
2007年01月26日
本日、ちょっと遅い新年会。
パブリディでお世話になった編集長のM氏とP社編集者の奥様、山口晶くんとY氏の5人で、場所は新宿の韓国料理店が集合場所だった。
中野坂上で、Y氏と私は待ち合わせをしてタクシーで行くことになったのだが、Y氏が「次を右に曲がって下さい」「で、次を左に」と運転手さんに伝えてナビをし、「ここで結構です」と車から降りると、なんとそこは新宿ラブホテル街のド真ん中だった。
<違いますよ>
の、オーラをタクシーの運ちゃんにプンプン送って降りたが、まぁ見渡す限りラブホテルばかり。新宿は私は伊勢丹、高島屋エリアにしか行かないので、この辺に来るのは初めてなのだ。タクシーを降りた所で偶然晶くんの姿を見つけたので、「お〜い!」と呼んだ。
キラキラピカピカして楽しそうだが、さすがにケーキ屋に駆け寄って行く無邪気さは消える。下ネタH系のギャグは私は持ち合わせがないのである。
「なんか、すごいね〜」と言ったりして場を繋ぐ自分が居る。
なんとなく、自意識過剰になる。
<早く店に着いてくれー>
ラブホテル街で思い出すことがある。
20歳ぐらいの頃だ。
実家の高槻から割と近い名神高速茨木インターの辺りが、ラブホテル密集地帯なのだが、これが国道171号線から少しそれた所にあるのだ。ここで右折やら左折をして入る車というのは、ほぼ「クロ」。”ラブホテルに消えていく二人がどんな二人なのか、見てみたい”と、後ろに並んだ車が「ふふん」と目をやるので、その時に若干スピードを緩めるのが171号線の自然渋滞に影響を及ぼしていたりするのだ。
私は当時千里という北摂の辺りで習い事に通っていて、その日はどういうわけか、父しげおっちが私を送ってくれると言うのだった。そりゃ電車とバスを乗り継いでいくよりうんと楽だわと思って「じゃ、送って」と言って車に乗せてもらったのだったが・・・。
父はこの日、何故かたいして道が混んでいるわけでもないのに「ワシ、ええ裏道知っとんねん」と言って171号線とは違う道を走るのであった。
<なんで?!>
大きな道が混んでいない時は、裏道よりも本道を走った方が早い。だが文句を言えば、逆にそれが火種となって説教をされることになる。
<ここは黙っていよう>
時間に間に合えばそれでよし。
黙っていたのだった。
しかし、車は171号線に一向に出る様子もなく、そして茨木インターラブホテル街が見えて来ると、私が父親だったらその道は近くても避けるだろうに、父はここで更に「ええ裏道、知っとんねん」と言ってラブホテル街に突っ込んで行ったのだった。
ホテルの車入り口のビラビラが見え、「IN」の矢印が見え、昼間なのにチカチカと→が誘い・・・。
ホテルの敷地内も通るのかと思う位であった。
171号線に車が合流する時、私はうつ向いていた。
そうしてしげおっちと私は、信号待ちをしていた車から、”昼間っからお盛んですな”の好奇の目に晒されながら、親子程年の離れたエロカップルとして、ラブホテルしかないその小道から出て行ったのであった。
<お父さん、どういうつもり!?>
父の無神経さにあきれていた。何より、裏道を使っても時間短縮になってはいなかった。
今日も短時間だったが、ラブホテル街道は妙に緊張をしたのだ。
よく知る人とそういうエリアを歩くのは、どうも具合が悪い。まぁ親と一緒に車で通過するというのもまた妙だが・・・・。しかし、じゃあ知らない人とならしっくり来るのか。いいや。緊張以前に、まずこのような場所には来ないであろう。
お店に着くとホッとしていた。
「かんぱーい」
心の中で「私はシロ!」と叫んでいたのであった。
2007年01月25日
今日は外来でお世話になっている病院での院内コンサートの日。
先生の転勤をきっかけにここに外来に通うようになって4年、地下1階にあるピアノのことは、来るたびに遠い位置からいつも見ていた。コンサートのチラシが張ってあるのを見たり、また実際にコンサートをやっているのを聴いていたこともあって、いつか、ここでピアノを弾けたらと思っていたのだった。
「あの人だって元気になれたんだ」
360度、どの角度からでもいい。
今日は好きなだけ自分を見てもらおう。
ベッドの上で苦しくて悲しくて寂しかった私に、退院をしていくルームメイト達がくれたお守りは”あの人も元気になったんだ”ということだった。それはどれだけ自分の希望になったことだったろう。
あともう少しだけ頑張ろう。
あともう一回だけ頑張ってみよう。
今の私はその細々とした”あともうちょっとだけ”と、かろうじてあきらめなかったことの積み重ねで在る。自分は打たれ弱いし決して強い人間ではなく、それどころか、いつだって何かの拍子にそれまで握っていた手をふと離してしまいそうになるもろい部分が大半を占めている。
でも今日はアガらないよ。
話したいことがたくさんある。
今の自分だから言えることもあると思っている。
音楽でなく自分を晒すのには勇気が要る。だってコンプレックスの大きさや、自分に対する自信の無さが小さい頃から私を音楽に向かわせてきたのだ。何か一つのことに一途になれる人間のその原動力は、ほとんどが才能ではなくいびつな構造、非常に欠落した自分への嫌悪の裏返しなのだ。
そんな自分が一歩前に出て行こう。
みなさん、はじめましてと笑顔で始めよう。
「あの人も元気になれた」
いつか病院のベッドで自分がもらったバトンだ。
ずっと忘れたことはなかった。
「みなさん、はじめまして」
150回近く続いている院内コンサート。
ポップスのコンサートは初めてなのだそうだ。
届け、届け。
ささやかな、だけど強く持ち続けてきた私の想い。
この気持ちを理解してもらい、今日この場が頂けたことに感謝している。
2007年01月24日
夜、今日も電車で下北のスタジオに行った。
途中駅の明大前で、ガラリと車内のムードが変わる。大学があるからなのだが、大学生ではなさそうな若者もごっちゃになって車内に押し寄せてきて、これがまた全員親不孝者に見えてしょうがないのだ。
私は彼等位の年の頃を、京都で過ごした。
もし大学生の頃もしくは大学を出てすぐの頃に、東京で一人暮らしをしていたら・・・、どんなだったろうなと想像をしてみる。
下北沢の6畳ワンルームの部屋。
玄関を開けると下駄箱の上には、ちょっと不気味な人形も含め、「可愛い!」雑貨達がいっぱい並べてあり、下駄箱に収まりきらなかったブーツや靴が3足位あり・・・。
ユニットバスには、チープな柄のシャワーカーテンが吊られていて、部屋の中もやはりチープでちょっと派手目の小物を飾って、全体的に物が多めの部屋作りになっているのであろう。
自炊レベルは今とほぼ同じ、オムライスやカレーといった簡単な洋食がメイン。
マイカーは自転車。それでお気に入りのスーパーや輸入食料品店のはしごをしている。
携帯はちょっと気味の悪い人形など数個のストラップをつけ、本体には”自分は可愛いと思っている”シールを貼り、自転車に乗りながら友だちと、今日あった出来事を電話で話をしているのだ。
美容院に行くお金がないので、髪は腰までの長さになり、夜中にコインランドリーに大物の洗濯につっかけで出る。で、深夜カランコロンと足音を立ててコンビニ経由で部屋に帰るのである。
昔、私んちは門限に言葉遣い、躾が厳しかった。
そういう家で育つと反動は大きい。
だとしても、やはり今の私が見ても眉をひそめる。
「降りま〜す」と言って、人でぎゅうぎゅうになった車内を今日もなんとか脱出した。
東京はラッシュアワーが長い時間続く街。
親不孝者達はこれからどこへ行くのか帰るのか。
私は他は卒業したが、親不孝だけ卒業が出来ない。
改札を出れば、また人。人。人。
下北沢も親不孝者の街。
今日も「これは昔の自分じゃないのか」と思うような女の子を何人も見掛け、思わず懐かしくて声を掛けそうになったのだった。
2007年01月23日
玄関を出た所にはジュリアンという花のプランターとビオラのプランター、二つを並べて置いているのだが、ジュリアンの花が3つ共鳥に食べられていた。
前の家でもそうだった。
ジュリアンが食べられてビオラは被害がなかった。
食べて行ったのは恐らくひよどり。庭のギャングと呼ばれている鳥だ。見た目が灰色で鳩をスリムにした大きさの鳥で、冬の餌の少ない時期にこうして花を食べて行くのだが、だったら賞味期限が切れた食べ物をやるから花を食べないでくれと私は頼みたい。
だってジュリアンは、花の色が綺麗だから植えているんだよ。丸いプランターに3つ植えるなら、どの色がいいかなと店先で白や赤や黄色、いろんな色の中から選んだ苗だったんだよ。ピンクだっていろいろあって、ややピンクに濃いピンク、くすんだピンクに蛍光ピンクとピンクだけでも5種類ぐらいあって、何度も色の組み合わせを考えて買った3つなのだよ。
完食されているのはジュリアン、ビオラは一つも手をつけてはいない。前の家でもそれは同じだった。人間の私にすればどちらかを食べるとするなら、ビオラの方が花びらが柔らかいのでビオラに先に手を伸ばすだろうな・・と思うのだが、何かあるんだろう。ヒヨドリはビオラとパンジーは嫌いなのだ。
家の前の道は白いブタ猫が縄張りにしていて、一度生ゴミの袋をビリビリに開けられたことがある。
なのでやっぱり花を差し出すしかないのか。
ヒヨドリくんよ。
君もなんとかやっておくれ。
ウチの花を食べてもいいとは言わん。
だって私にすれば泥棒だよ。
可哀想という感情は、時々厄介だ。
どの大きさの生き物に対しても、同じように自分は向けられるのか。そして喜怒哀楽も同じように発せられているのか。
突出した分量があれば、それは余分量。
3月になるとヒヨドリは花を必要としなくなる。
”春が早く来るといいね。”
見えない姿に向かって、言葉を投げたのだった。
2007年01月22日
今日は先輩のOさん夫妻の家に遊びに行った。
世田谷線は京都の嵐山線と感じが似ていて、トコトコと町の中を走る電車で、Oさんの家まではそれに乗って行く。広い野原の中を走る電車も好きだが、家がすぐそばに見える電車に乗るのも楽しい。ゆっくり電車が走るので、住宅街を大きな自転車で走っているかのような気持ちの良さが、世田谷線の魅力だ。
Oさん夫妻とは知り合ってもうどれぐらいになるのか。
24〜25歳位の頃、私は柄物のトップスに水玉のパンツを履き、格子柄のシャツを羽織って道端にウンコ座りをしていた。それだけでもものすごいコーディネイトだが、その当時被っていた花柄の帽子はOさんに貰ったものなのだ。
”ちょっと年上の人”に対する人見知りが激しかった私だったが、「遊びに行ってもイイデスカ〜」と、夜遅く訪ねたりしていたのだった。
当時から二人は父と母のような夫婦という感じがなかった。あまり他で感じたことがない関係のように私には映っていて、それは”友だちみたいな夫婦”でもなく、”兄妹のような”でもなく、時々雑誌で見た”お互いがパートナー”という間柄が一番当てはまっていて、今思えばまだ20代の若い夫婦だったのに、その頃の私には随分大人な二人に見えたものだ。
今日はインターネットラジオのゲスト収録をさせてもらって、夜は鍋をご馳走になった。
(オリジナルピック発見)
(器材はこれだけではありませんでした)
劇団新感線のDVDがたくさんあって、それを見ながら質問をいっぱいする。映画のDVDでも、本編が終わった後で特典映像や制作秘話を観るのが大好きなのだが、それはほんの一部でしかなく、物足りないと感じる時がある。今日は疑問に思ったら「ここはどうなってるんですか」と何でも聞けるので、何でも聞いてそして何でも答えてもらったのだ。
これを収録しておけばよかった・・・。
音楽が作品の一部になって、また他の物も一部となって、それらたくさんの物が集まって一つの作品になるという物作りの話はとても面白い。たくさんの知恵が集中して集まって何か一つの物を作る醍醐味を私も味わってみたいのだ。舞台音楽も知恵を絞り出すことの連続、音源の面白い録り方や音源ソフトの活用方法も、意外なアイデアがいろいろと聞けた。
O夫妻は環境が変わっても、人に対しての温度が変わらない。
あぁ、そうか。
温度なのだ。
自分の本来なら人見知りが出てしまう”ちょっと年上の人”に対するかたさがほぐれるのは、それだったんだろう。
今日は自分の話もたくさんした一日だった。
私は話をたくさんすることはあっても、自分の内側にある話となると何故かあまり出来なくなる。
そういう癖がついている。
でもなんだろう、この感じは。
昔からそうだった。
O夫妻。
私自身が解放されて自由になれる二人なのだ。